2013年2月14日木曜日

アートとジャーナリズムの国境線

  お久し振りです!今日はPrix Pictetという写真賞にみる写真の微妙な位置づけについて考えてみます。podcastのMonocleでみつけたものです。

 Prix Pictetはスイスのピクテ銀行という超富裕層を顧客とするプライベートバンクが社会貢献活動として設立したものです。2008年から始まり、世界の社会問題や環境問題などに関わりのある写真に賞を与えてきました。これまでのテーマは「Power(力)」「Growth(成長)」「Earth(地球)」「Water(水)」。参加者はジャーナリスト団体やキュレーター、美術館、芸術団体、通信社などからの推薦されます。自薦も可能です。Monocleで紹介していたのは2012年10月にロンドンのサーチギャラリー行われた「Power」の展覧会でした。

 Powerというテーマには写真家の様々な視線が感じられました。紛争や移民の若者の諍い、あるいは東日本大震災の津波を写した作品もありました。

 podcastでインタビューを受けていた建築家のノーマン・フォスター卿は「例えば持続可能性について、それを言葉にすることはできる、論文を書くことはできる、議論することはできる。しかし写真に撮ることでより力強いイメージを与えいろいろな解釈をすることができる。不快感のあるものもあるが心を動かすものでもある」と語っています。

 紹介されていた作品の一つに2010年のメキシコ湾油田流出事故を空撮したものがあります。大惨事であるはずなのにコバルトブルーの海に流れる油が油絵のようにも見え「disturbing beauty(不穏な美しさ)」とMonocleのレポーターが語っています。

 この賞の意義に異議は唱えませんが、アートとジャーナリズムの枠を越えるというような位置づけに微妙な思いを抱いてしまいます。フォスター卿の語る「不快感があるが心を動かすもの」や「disturbing beauty」などという言説は呑気じゃない?と言いたくなります。深刻な問題を抱えている現場に対して「不快だが美しい」とわざわざ言うのもジャーナリズムがアートに逃げているように感じます。写真家自身も戦略的に撮っているのだとは思いますが。こういったスタイルも芸術表現の一つだといわれても私にはどこか引っかかるものがありました。悲惨な状況にふと見えた美しさに気づいてしまう居心地の悪さに鈍感すぎやしないかと思うからです。

 大金持ち相手の銀行が社会問題を取り上げた写真に「社会貢献活動」と銘打って賞を与え、気取った雰囲気のギャラリーで展覧会を開くという絵面に、庶民の私としてはちょっと反発したいというのもあるかも。しれませんね!

 次回も写真について書く予定です。


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