2015年12月31日木曜日

秋のくらもと古本市探訪

 少し前、11月18日になりますが、上諏訪のくらもと古本市に行ってきました。五つの酒蔵、真澄、横笛、舞姫、麗人、本金が会場で、私にとって秋と冬の恒例行事になっています。















 今回はトークイベント「なんでみんな、本に熱くなるの?」を聞くのも目的のひとつでした。クルミドコーヒー店主でクルミド出版発行人の影山知明さん、そしてクルミド出版から小説『りんどう珈琲』を発表したOZmagagine編集長の古川誠さんがゲストです。舞姫の二階で、お二人の出会いから、本ができるまで、クルミドコーヒができるまでのお話を聞きました。



 「インスタントコーヒーはコーヒー豆をくだいたものだと思っていた」という影山さんの著書『ゆっくり、いそげ 〜カフェからはじめる人を手段化しない経済〜』もご紹介されました。これにはクルミドコーヒーというカフェができるまで、そしてお客さんや従業員、地域の人を大事にしながら続けていくための思いが書かれています。「資本主義、乗り遅れた者は負け」でも「お金がなくても気楽に生きていこうよ」でもない、周りの人を大事にして幸せになれる経済ってどういうものだろう?という視点に励ましを感じました。


 というわけでトーク終了後、影山さんが二冊だけ持ってきた一冊を、私がゲットしてサインも頂戴しました。またも日本酒を買いそびれ、古本もグッと来るものがなかったのですが、最後にいい出会いがありました。





2015年10月30日金曜日

誰かの眼を借りて

  9月6日「観ると撮る〜美術館体験の拡張」というタイトルで、来館者が美術館で写真を撮る風景について書きました。MoMA、ルーブル美術館などでは来館者がなし崩し的に写真を撮るようになり…と書いた写真雑誌の記事にも触れましたが、私は新しい鑑賞のかたちだと感じており、こうした流れにはポジティブです。

  そうしたところ、アート情報サイト、Art Annual online(アートアニュアルオンライン)で美術館がインスタグラムのアカウントを作って来館者の写真をシェアしているというニュースを見つけました。私は苦々しいニュアンスの意見を紹介しましたが、すでになし崩しではないではないか!積極的に使っているではないか!と拍子抜けしました。ルーブルの他にはMoMA、TATE、メトロポリタン美術館、大英博物館などがアカウントを作ってPRや来館者と美術館とのコミュニケーションなどに利用しているそうです。日本では山種美術館、森美術館、ポーラ美術館がアカウントを開設しています。

  ルーブルのアカウントは、今日現在で投稿が445件あり、なんとフォロワーは29万人を超えています。子どもがケースにかぶりついて彫刻を見つめている写真や、展示替え?で職員が石像を動かしている写真には臨場感があります。夕闇に光るガラスのピラミッドや敷地内の紅葉を撮った写真には場所の空気を感じます。画集や公式サイトは「こう観てほしい、一番いい状態を観てほしい」という意図の写真が使われますが、インスタグラムは来館者の視点で切り取られていて、お土産話を聞いているようです。

  私が美術館教育や鑑賞教育などに関わったり学んだりしていた15年〜10年前は、レプリカやモチーフの教材キットや、バンに作品やハンズオン教材を乗せた移動美術館などで実際に行かなくても学びを深められる手法をよく見かけました。まあ、それはそれで作品に触れる体験ではあるのですが、モノだけに頼っているところに美術館体験として物足りない部分がありました。       

  もちろん、インスタグラムだって実物ではないし、場を体感するわけではないけれど、「この人はこれに注目して写真を撮ったんだ」「この風景に心奪われたのか」と思いを馳せられるのは、会ったことのない誰かの眼を借りた親密な美術館体験です。作品そのもの、美術館そのものではないのに、手触りがあります。単純に素朴に、技術の進歩はすごいなあと関心するとともに、美術館での人との関わり方、体験や思いを共有するあり方に変化の可能性を感じています。















2015年10月3日土曜日

私たちのリベラルアーツ

 6月に政府が出した、国立大学の人文科学社会科学系学部の縮小あるいは閉鎖を求めた通知が波紋を呼びました。国立大学は「社会的ニーズに応える分野を担う」のが理由だそうです。人文科学をないがしろにすれば、単に生きることはできてもよりよく生きることはできない、とか、一見役に立たないものから創造的なものが生まれることを忘れるなかれ、など憤りの声がアカデミックの分野や文筆家から噴出するのも散見しました。


 一部のメディアによる誤解だと文科省は釈明していますが、海外からもこの動きを危惧する声が上がっていたので紹介します。The Diplomatというオンラインマガジンに、テキサス大学オースティン校のJohn W. Traphagan教授が寄稿したものです。The Diplomatはアジア太平洋の政治や社会、文化などを取り扱っています。Traphagan教授は、文科省の思惑に対して、日本はリベラルアーツを否定しているのにポップカルチャーを世界に輸出しようとしている、と痛い矛盾を突いています。


   欧米からの批判に弱いのは日本人にありがちで、日本文化の例としてハヤオ・ミヤザキという印籠を出されるのも食傷ぎみですが、彼があげる二つのキーワードは核心を突いていました。


  なぜ社会科学や人文科学が必要なのか、彼は、interpret our world(私たちの世界を解釈する)、work with others(他者と協働する)の二つを実現するためだと書いています。この二つは社会的ニーズというどこかからの要請ではなく、「私たち」が解釈する、「私たちが」協働するといった、個人がどうあるかという視点です。主体は私たちです。


個人と社会的ニーズの関係について考えていたとき、ずいぶん前にラジオで聞いた経営者のインタビュー番組のことを思い出しました。うろ覚えなのですが、アウトドア用品会社の経営者がゲストで、MCが「お客様のニーズに応えるためにどんな工夫をしていますか」と聞いたところ「(外からのニーズというより)社員が登山などで使ってみて必要だと思ったものを開発しています」というニュアンスのことを言っていました。MCは引き下がらずお客様の…と繰り返し、聞かれた方も戸惑っていて、噛み合ってなくない?とつっこみを入れたくなりました。ニーズの設定が入口ではなく、個人一人ひとりが積み上げた知見や分析によって商品を具体化していということは、この会社には無駄足かもしれないことや取りまく環境を理解することに時間をかける文化があるのではないかと感じました。


 ビジネスの話なので社会学、芸術、文学、倫理学といった学問と直接つなげるのは荒っぽいですが、Traphagan教授の「よい働き手とは、創造的思考ができ、人間との関わりの中でコンテキストを理解し、道義にかなう行動をする」という言葉にも通じると思います。


  ちなみに前出のブランドの寝袋、私も持ってます。


 

2015年9月6日日曜日

観ると撮る 〜美術館体験の拡張〜 

 スマートフォンを高々とあげてモナ・リザを撮る来館者たちを後ろから撮影した写真が、ameicanPHOTOという写真情報サイトのコラムに載っていました。なんというか、美術館で写真を撮るイケてない人たちの図っぽい。


 しかし2010年あたりから、MoMAを始めとしてニューヨークの美術館では、来館者の撮影を許可する流れになってきたようです。コラムの冒頭は批判的で、写真家は作品へのダメージや著作権など多くの課題と妥協しながら撮影してきたのに、美術館はなし崩しで撮影を許可し始めている、という論調でした。


 先月森美術館で観た「シンプルなかたち」展でも、来館者が作品を撮影する光景に遭遇ました。
 
 通常の展覧会では珍しいことですが、森美術館の企画展は、営利目的で使わないことを条件に撮影可能な作品がいくつかあります。今回は3点のインスタレーション作品が撮影できました。ただ、美術館側が撮影可能な作品をコントロールしているので、なし崩し的な例とは同じではないことは前提です。


 友人から聞いてはいたものの、静かに鑑賞している人たちが特定の展示室で写真を撮りはじめるというのは意表をつきました。オラファー・エリアソンの展示室では、「ほらほら、そこに立ってて」と不機嫌な息子にiPhoneを向けているお父さんに名所旧跡感があったり。邪魔してスンマセン、と恐縮しつつ展示室に入って罵声を浴びる…ことはなかったです。


 と書くと、作品もロクに観ないで写真を撮るなんて、ケッ、無粋な!と鼻息荒くなってる人だと思われそうですが、私は美術館の新しい風景だと感じました。コラムでは、「写真を撮ることで美術館の体験を記憶するのではなく、(写真の)イメージによって美術館を体験しているのだ」という意見も取り上げています。写真は記録媒体ではなく、体験の仲立ちするものに変化していると言い換えられるかな?森美術館も、写真を撮るという選択肢を鑑賞の一環に加わえて、SNSで共有するところまで想定して鑑賞に広がりを持たせているともいえそう。


 実をいうと、私はゲキ重い一眼レフを持っていってモタモタしただけでした。これこそ無粋でありますね。


2015年9月2日水曜日

一般国民の私とオリンピックエンブレム問題

 東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会がエンブレムがを白紙撤回しました。このまま行くんじゃない?という展開を予想していたのでびっくりというか、でもやっぱり、というか。

 1日の大会組織委員会の会見によると、エンブレムに関してはデザイナーは模倣していない、しかし一般国民の理解が得られないというのが理由だそうですが、いまひとつ撤回の決定打が分かりませんでした。法的には問題ないし独自性があるとしているなら使用できるのでは?そして「一般国民」って誰だろう?という二点が私の疑問です。オリンピック自体にはあまり興味のない一般国民の私ですが、法的な課題については前回のブログに書いた通りで、権利問題がなければ当初のエンブレムを使っていいと考えています。

 また、今回はデザイナーへの個人攻撃というか、ネット上の私刑のようなものが広がっているところにも気味の悪さを感じました。

 これから公募で決められる新しいエンブレムが、「一般国民」に受け入れられることになるのか、注目どころです。それまでには、オリンピックのエンブレムというものがどんなコンセプトで、何を目指してデザインされるのかを理解できる一国民になっていたいと思っています。

参考にしたのはこちらのNHKニュースです。