この展覧会では、5人の学芸員が8つに分かれたコーナーを担当しており、各コーナーの始めには、担当した学芸員の解説がついています。私は始め、この構成がよく分かっておらず半分過ぎまで来てしまいました。ところが途中からこの構成を知って、俄然面白さがアップしました。国内外の時代もさまざまな作家の作品を、個々のキュレーターの視点を通してみることで、自画像、身体、死などのテーマがぐっと近くに感じられました。それに、今まで知っていた作家や、好き嫌いで判断すると嫌いだった作家の作品も、「こう見ると、こういう意味をひきだせるのね。」とか「このキュレーターはこう言ってるけど、私はこう思う。」というように、自分を縛っていた見方から解放されるような気持ちにもなりました。
このプロセスは、美術作品、とくに現代美術作品に対して私の中でもやもやしていたものへの、ひとつの回答のようにも感じました。これまでいろいろな場面で耳にしてきた「現代美術は分からない」という(やや苛ついた)反応に対して、しっくりくる答えができないものかとよく考えていました。古文書とか仏像を前にして「こういうのは分からない」というあからさまな拒否反応はあまり聞かないのに、こと現代美術に関してはなぜか「分からない」ことが人々のネガティブな気持ちを呼び起こしているようにも感じました。などと言っている私も、展覧会を見ながら、ここで何か言葉にしないとダメだ!という脅迫的な思いになることが時々あります。
現代美術と自分とのこういった距離感は、もしかすると「よりどころ不足」のようなものからきているのかもしれません。分野は全く違いますが、スーパーで時々見かける、作った人の名前が明記された野菜のように、展覧会の作品も「私がこんなふうに選びました」というのがもっと明らかになっていると、見る方は一歩前に進む指針を得られるのかもしれません。そして見る方はそれに対してふむ、と納得するもよし、いや違う、と反論するもよし、なのだと思います。
東京国立近代美術館
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