森美術館で行われている企画展、「英国現代美術の現在史:ターナー賞の歩み展」のアーティストトークを聞く機会がありました。ターナー賞は、イギリスの秋の風物詩とも言える現代美術賞で、テレビ局がスポンサーになっていることから、毎年報道も大々的になっています。この企画展では、20年以上に渡る賞の受賞作品が集められています。私の好きな、レイチェル・ホワイトリードの作品も来ていました。
さて、アーティストトークでは、ホワイトリードともう1人、マーティン・クリードが自分の作品について語りました。彼の作品は『ライトが付いたり消えたり』というタイトルで、文字通り展示室の照明が何秒かごとに付いたり消えたりするだけのものです。初めその展示室に入ったとき「もしかして、ここは照明の調整中?」と思ったのですが、ライトが付いたり消えたりするそのものが作品なのでした。作家はコンセプチュアルで小難しい感じの人なのかしらと思ったのですが、クリード本人はあまり人前で話し慣れてないような訥々とした話し方の人でした。うなり声(?)で構成された『ウー』という音楽作品や、女の人が嘔吐している映像作品(なぜ男性ではなく、女性がモデルかというと彼曰く、女の人の方が上手に吐くからなんだそうです!)などを紹介していました。
このあたりで、この作家はやっぱり私向きではないかも・・・と思い始めました。しかし、作品のコンセプトについて話している中で、私は息を飲みました。彼は「全てのアート作品はキネティック(動的な、運動する)だ。モノは周囲の環境と切り離せないし、見る人は、いつも動きながらモノを見ている。アートを見る体験は、いつも動きの中に起こる演劇的なもの。」というようなことを語ったのです。これは、修論の時に私が考えていたことと通じるものがある!と感じました。
修論のプランを練る時、「美術館体験」とは作品を見ることだけなのか?例えば美術館という場の文脈から離れて置かれたら、それはもう美術館体験とは言えないんじゃないかな、と考えたのが初めのアイディアでした。そこから、美術館体験とは作品を見るというのでなく、作品がある「場」の体験である、という考え方を中心に論文を書きました。卒業した後もこのテーマが私の中では静かに熟成を待っており、機会があればもっと深く取り組みたいと思ってきました。だからクリードの話を聞いた時、「全てのアート作品はキネティック、動きの中で作品を見る」という言葉にはっとさせられたのだと思います。彼の話を聞いて、展示され、人々に体験されるという行為そのものを、彼は作品の中に閉じ込めているように私は感じました。図録の写真や記録された映像を見るのではなく、その場で、その空間で作品を見る、ということの意味について改めて考えてみたいと感じました。
ところでもうひとつ気になるのは、この作品をもし買ったとしたらどんな形で納品されるのか、ということです。
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