彼女は、美術館に入ると15分か20分ぐらいで絵のことが考えられなくなり「コーヒー飲みたい・・・」と思ってしまうそうです。そして「皆さんもそういう経験ありますよね、それでなんとなく罪悪感を感じますよね。」と続けると、会場にも苦笑が洩れました。彼女が使っていたgallery fatigue (美術館疲れ)という言葉については、博物館学の教科書にも似たような、museum fatigue(博物館疲れ)という単語が載っていたこともあり、私もああやっぱり、と苦笑しました。
美術館はなぜ、こうも人を疲れさせるのでしょう。
「だけど、」彼女は疑問を呈します。「レストランに行った時、全てのメニューを頼むでしょうか。そんなことはありません。デパートにシャツを買いに行った時、全て試着して、全てのシャツが欲しいと思うでしょうか。もちろんそんなことはないでしょう。私たちは選択をするのです。」
ここでタイトルにもあるように、彼女は絵画から物語を引き出すという見方を提案します。例えに出したのはフェルメールの有名な作品、『真珠の耳飾りの少女』、そしてシャルダンとテューダー時代の作者不明の作品の3つです。
これらの読みは大変想像力をかき立てられるものだったのですが、私が最も関心を持ったのは、美術館では最初から順番に見ない、まずはざっと一周見回すようにして、そこで気になった絵をじっくり鑑賞する、自分が自分自身のキュレーターになる、という彼女の美術館鑑賞の方法です。私も展示室の始めからではなく、つまみ食いのように観たり、展示室を行ったり来たりするが好きなので、彼女の見方に共感しました。
そこで思ったのは、美術館疲れは、美術の知識がないから気後れする、というよりは、慣れない場所でどのように動いてよいか分からない不安からくるのではないか、ということです。この不安を解消することは、私たちの美術館疲れを解消するヒントになりそうです。美術館以外にどのような「疲れ」があるだろうと考えてみました。個人的にはお参りの作法をよく知らないお寺とか神社でしょうか?初めてお茶会に行った時もそうです。もっと身近なところでは、新しく学校に入学するときも同じような疲れがあるかもしれません。と考えると、美術館疲れも特殊なことではないように見えます。ならば、美術館疲れで足が遠のいている人たちにも、美術館で自分にしっくりくる振る舞いを見つけ、罪悪感を持たずに一歩を踏み出して欲しいと思うのです。
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