2013年12月4日水曜日

読んだらバトれ!

 さいきん蟄居して本ばかり読んでいました。週に一度は図書館に通う日々を過ごしているのですが、先日近所で開催される「ビブリオバトル」のお知らせに目がとまりました。ビブリオバトルとは、それぞれお勧めしたい本を一冊もって集まり、5分で本の紹介(原稿やパワポはなし)をしてディスカッションを2~3分おこなった後、一番読みたくなった「チャンプ本」を投票で決めるという書評ゲームです。3人集まればできるし、少人数ならスタバのようなところでも可能です。
 早速公式サイトとYouTubeにアップされている都主催の決戦の様子を見て、いても立ってもいられなくなりました。感銘を受けた本はかたっぱしから家族に読ませたがり、けむたがられる私としては、公式な場で本を薦められるというのはうってつけじゃないか?しかし、大学生の公式戦に出場しているバトラーたちのプレゼンを次々と見ていくうちに、ううむ、と唸っていまいました。これはかなり難しい。本への愛情があふれすぎると空回ってしまうし、ネタバレしてはいけないし、全てを5分に収めなくてはいけない…。試しに自分が好きな本についてプレゼン原稿のようなものを書いてみてがっかりしました。私はなんとボヤっとした言葉でしか感動を語れていなかったか!
 この時はまだ参加するか迷っていましたが、2日間開催されるということだったので1日目に偵察に行ってどうするか決めようと思っていました。
 今回私が行ったビブリオバトルは、森の中のこじんまりとした会場で開催されました。バトラーは5人、観戦者を入れて9人という小規模バージョンで親密ながら緊張感のある会でした。お知り合いの方達同士のようでしたが、人の前で話す、伝えたいポイントが伝わるように話すというのは見ている方も真剣になります。そして次の日、私はどうしたでしょうか?参加してしまいました!バトラーが3人というミニマムバトルだったので投票はなしになりましたが、むかし読んだことがある本でも他の人の言葉で語られると、その時読みのがしていた情景に気づくことなどもありますます面白さと奥深さを実感しました。
 ビブリオバトルはもともと京都大学情報学研究科共生システム論研究室の谷口忠大さんが、人の発表を聞くだけという勉強会を変えようと考えて始めたものです。紹介された本は無理に読まなくてもいい、面白いと思ったら読む、というスタンスで今のスタイルに落ち着いたそうです。次第にこの活動が他の大学に広がり、2010年に普及委員会ができました。
 小中学校の授業や企業の研修、私が参加したような小さな集まりなどでもビブリオバトルは開催できるし、複雑なルールがないところがやる気を起こさせるポイントだと思います。そして私が気に入ったのは、巧いプレゼンを決めるのではなく、読みたくなった本、チャンプ本を決めるというところです。実は「バトル」と聞いて燃えた私は、紹介したい本を何度も読み返して、本のエッセンスとそれに絡む自分の思い入れのバランスを考えるのにずいぶん時間をかけました。なにしろ読みたいと思わせたら勝ちなのですから!バトルならやっぱり勝ちたいから!
 しかしこれだけ頭を使う、しかも勉強とか仕事ではなく遊びに真剣になるのはなかなかない経験です。これからもバトラーとして参加したいし、自分でも企画もしてみたいと思えるイベントでした。ちなみに私が紹介したのは舞城王太郎の短編集『キミトピア』でした。


2013年2月26日火曜日

『キャパの十字架』



(English follows Japanese)

 沢木耕太郎著『キャパの十字架』を読みました。 
これは過日のNHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚 ~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」を観て買わずにいられなかった本です。番組は沢木氏の取材をもとにキャパの出世作「崩れ落ちる兵士」が実は兵士の死の瞬間をとらえたものではないかもしれない、さらに撮ったのはキャパではないかもしれないという謎に迫っています。信じていたものが「崩れ落ちる」衝撃的な内容でしばらく呆然となりました。ちなみに私の故父は元写真家で、本棚にはキャパの書いた『ちょっとピンぼけ』があったことを覚えています。父も少なからずキャパに憧れていたはずなのでこれを知ったらショックで落ち込むだろうな!とも思いました。

 さて『キャパの十字架』ですが「あの戦争写真は嘘だった!」とあたまから糾弾するものではありませんでした。真贋の追跡はもちろん面白かったのですが、沢木氏のキャパに対する愛情と真実を知りたい思いの交差が読み手にひしひしと伝わってきました。あの写真はやらせなのか、だとしたらそれをどう検証すればいいのか。証拠を拾っていく沢木氏のねっちりしたノンフィクション作家魂に心打たれます。現場だと思われる村を何度も訪ねるのはもちろん、模型と照明を使って撮った位置を検証したり、銃で撃たれた時ほんとうにあのように倒れるのか計算したり。「沢木氏、つぎは!つぎは何するの?!」という具合にあらゆる視点から隙を埋めていきます。それらをひとつずつ紡ぎつづけて荒縄にまでなってしまったようなガッチリした筆力に引き込まれました。

 個人的にはキャパの写真に限らずドキュメンタリー写真や戦争写真についていつも煮え切らない気持ちが残ります。真実かそうでないか、の二極で語り始めてちょっとケンカっぽくなるというか両者譲らぬ、という空気にしてしまうのがよくないよなあ、と思うのですがふさわしい態度が分かりません。「崩れ落ちる兵士」についてもう一度考えてみます。反ファシストにとっては正義の主張を代弁するものであったかもしれないし、掲載した雑誌『ライフ』にとっては一大スクープだったでしょう。時代が進むにつれてジャーナリズムのアイコンになったり平和への祈りに通じるものにもなります。ロールシャッハテストのように見る人によってそれぞれに意味のある形が浮かび上がってくるものであり、「こうあってほしい」という思いが一枚の写真を変える、というのが真実なのかなと今のところは結論づけておきたいと思います。沢木氏は後書きで、今も「崩れ落ちる兵士」に関する検証作業を進めているしこれから新しい資料が発見されて反証されればそれに越したことはない、と書いています。
 
 この本を読みながら高校生の時に父と話したユージン・スミスのことを思い出しました。彼も写真家集団マグナムに属しキャパと同じ年代に戦争や社会問題を取り上げた写真を撮りました。その時は水俣病の被害者を撮った写真について話しました。「あれはもしかして少しポーズを取ってもらったかもしれないがそれでも写真の価値は変わらない」と言った父に「ちょっとでもそんなことをしたら真実じゃない!やらせだ!むーっ!」と反発したものです。この本を読み終わった今だったら、うーん、「それは残された写真からしか判断できないよね」と濁してしまうかな。


I have read a book "Capa's Cross" by non-fiction writer, Kotaro Sawaki.
I didn't  resist to buy this book after watched the TV Programme in NHK. That is about Robert Capa's famous photo; "The Falling Soldier" he had taken in Spanish Civil War. Everyone believes that photo caught the moment of death, though, from the data covering by Sawaki, it might have been faked. Over more, he said this photo might not have taken by Capa. I was shocked to fall. Because I was one of those who believes that photo was by Capa, and the soldier was falling to die. Incidentally, my late-dad was a photographer. I remember there was a book by Capa, " Slightly Out of Focus" in his bookshelves. I'm convinced he admired Capa, so if he had known this, I thought he would be shocked.
I didn't resist buying this book after watched the TV Programme in NHK. That is about Robert Capa's famous "The Falling Soldier" he had taken in Spanish Civil War. Everyone believes that photo caught the moment of death, however, from the data covering by Sawaki, it might have been faked. Moreover, he said this photo might not have taken by Capa. I was shocked to fall. Because I was one of those who believes that photo was by Capa, and the soldier was falling to die. Incidentally, my late-dad was a photographer. I remember there was a book by Capa, " Slightly Out of Focus" in his bookshelves. I'm convinced he admired Capa, so if he had known this, I thought he would be shocked.
The book did not blame that Capa's "The Falling Soldier" was totally fake. What moved me was crossing of Sawaki's sympathy to Capa's life and search for truth. He had a long journey; was that fake? If so, how could we verify this? It is Sawaki's tough soul as   a journalist. It goes without saying that he visited the village where that photo was believed to taken. He bought a small-sized human model and lighting equipment to simulate the point where photographer took that photo. Also, he researched if it had been possible that the soldier had fallen like that posture when he had been shot. He calculated the speed and trajectory of riffles when soldiers had used while The Civil War. Sawaki investigates every possible evidence. Those investigation and contemplation drew me in.
Personally, I falter out to say documentary photo including Capa's works' meanings  and values. Is it true of fake? Is it just peep or not? I understand extreme argument is pointless, however, I still don't find appropriate approach for those documentary photos. Let's see "The Falling Soldier" again. It has a voice of anti-fascists, and for "LIFE" which published the photo should have been a monumental scoop. Time goes by, it would become an icon of journalism, or symbol of pray for peace. It reminds me of Rorschach test. One image draws different meanings by different testees. We also expect what we want see in photos. In a postscript, Sawaki wrote he was still investigating this subject, and if we would discover a new source, he will be happy to overturn his statement.
While I read this book, I recalled what my dad and I talked when I was a high school student. It was about Eugene Smith, who is also a photographer, a member of the Magnum, and took photos of war and social issues. We talked about one of his famous piece of works about patients and mothers of pollution disease in Minamata, Japan. My dad said if Smith asked them to take pose, the value as photo never changes. When I heard this, I objected to say if you asked so even once, it ruined everything, it was not a documentary! Now after I read this book, what do I say to him? I might say what I can conclude is only from the image in photos.
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2013年2月14日木曜日

アートとジャーナリズムの国境線

  お久し振りです!今日はPrix Pictetという写真賞にみる写真の微妙な位置づけについて考えてみます。podcastのMonocleでみつけたものです。

 Prix Pictetはスイスのピクテ銀行という超富裕層を顧客とするプライベートバンクが社会貢献活動として設立したものです。2008年から始まり、世界の社会問題や環境問題などに関わりのある写真に賞を与えてきました。これまでのテーマは「Power(力)」「Growth(成長)」「Earth(地球)」「Water(水)」。参加者はジャーナリスト団体やキュレーター、美術館、芸術団体、通信社などからの推薦されます。自薦も可能です。Monocleで紹介していたのは2012年10月にロンドンのサーチギャラリー行われた「Power」の展覧会でした。

 Powerというテーマには写真家の様々な視線が感じられました。紛争や移民の若者の諍い、あるいは東日本大震災の津波を写した作品もありました。

 podcastでインタビューを受けていた建築家のノーマン・フォスター卿は「例えば持続可能性について、それを言葉にすることはできる、論文を書くことはできる、議論することはできる。しかし写真に撮ることでより力強いイメージを与えいろいろな解釈をすることができる。不快感のあるものもあるが心を動かすものでもある」と語っています。

 紹介されていた作品の一つに2010年のメキシコ湾油田流出事故を空撮したものがあります。大惨事であるはずなのにコバルトブルーの海に流れる油が油絵のようにも見え「disturbing beauty(不穏な美しさ)」とMonocleのレポーターが語っています。

 この賞の意義に異議は唱えませんが、アートとジャーナリズムの枠を越えるというような位置づけに微妙な思いを抱いてしまいます。フォスター卿の語る「不快感があるが心を動かすもの」や「disturbing beauty」などという言説は呑気じゃない?と言いたくなります。深刻な問題を抱えている現場に対して「不快だが美しい」とわざわざ言うのもジャーナリズムがアートに逃げているように感じます。写真家自身も戦略的に撮っているのだとは思いますが。こういったスタイルも芸術表現の一つだといわれても私にはどこか引っかかるものがありました。悲惨な状況にふと見えた美しさに気づいてしまう居心地の悪さに鈍感すぎやしないかと思うからです。

 大金持ち相手の銀行が社会問題を取り上げた写真に「社会貢献活動」と銘打って賞を与え、気取った雰囲気のギャラリーで展覧会を開くという絵面に、庶民の私としてはちょっと反発したいというのもあるかも。しれませんね!

 次回も写真について書く予定です。


2012年12月2日日曜日

わくわくから闇のむこうへ




 『FBI美術捜査官 -奪われた名画を追え-』という本を図書館で見つけたとき、迷わず書架から引きぬき貸し出しカウンターに持って行きました。一時期パトリシア・コーンウェルの推理小説、FBI検屍官シリーズにのめり込んでいたこともあり、FBI、しかも美術捜査官というタイトルに心奪われました。てっきりフィクションだと思っていたのですが、よくみると著者はFBIで美術捜査官を務めていたロバート・K・ウィットマンとのこと。

 美術品の盗難といえば、謎の犯人による大胆な犯行の後に盗品が思わぬところで見つかるなど、不謹慎ながらちょっとしたわくわく感があります。人が殺されるほどの事件を聞かないので深刻ぶることもないかなと思ったりもします。(博物館学を学んだ者としてはいかがかと思われるところですが。)しかしこの本を読み進めてそのわくわく感はわきに追いやられました。

 ウィットマンは美術館などから盗まれた美術品を奪還するFBIのチームでキャリアを積みました。彼の手記によると捜査は地道でダイナミックです。まずは小さな情報から綿密な裏付け捜査を行います。犯人の目星がつくと彼らを信用させるために偽ディーラーを装い取引を持ちかけます。そして犯罪が実証されたところで人も美術品も傷つけずに盗品を取り戻す、という長い道のりは息が詰まりそうになります。解決に何ヵ月、何年もかかることもあるそうです。忍耐強さと交渉能力、役になり切る役者魂などウィットマンの捜査官としての多彩ぶりに驚かされました。(かなり詳細まで明らかにされていますが、FBIと版元双方の弁護士との交渉がかなりあった模様です。共著に弁護士の資格を持つ記者の名前も記されているので背後にはいろいろ読み手には知らされないこともあると思います。)

 華麗な犯罪解決劇には目を奪われますが、名画が欲や金のために翻弄される様が生々しく描かれているところも読み応えがあります。犯人たちの目に映る美術品は、歴史の証しとしての、研究資料としての、後世に伝えられるべき共有財産としての価値はなく、金銭的な数字だけで値踏みされます。

 しかし捜査官といえども人間です。偽ディーラーに扮した彼に心を許した犯人を結果的に裏切る現実に彼は動揺します。アメリカ先住民の工芸品を不正に売買し、逮捕された犯人から宛てられたメールのくだりでは私の心も痛みました。(ここはネタバレしないように。読んでのお楽しみです。)強奪犯の後ろには麻薬組織や国際的なギャングがいることがほとんどで、割に合わないリスクを負うしかない人たちも垣間見えます。また、手柄を独占したいがために国を越えてまで互いの足を引っ張り合う捜査官や警察の様子も描かれています。あらゆる欲にかられて美術品を強奪する犯罪者と彼らには、それほど違いはないのではないかという嫌な後味が残りました。

 後書きによるとウィットマンは強奪犯はおしなべてとてつもなく強欲だと語ったそうです。わくわく感などと呑気なことを言っていましたが、最後に見えたのは犯人に限らず自分を含めたあらゆる人間の強欲さでした。強欲さはたんなる金欲しさかもしれないし、虚栄心やメンツやくだらないプライドを増幅するものかもしれません。その破壊力に背筋が寒くなりました。この本は美術品強奪という犯罪を描いていますが、実は人間のありようを残酷に映していると感じます。好奇心から踏み入れた世界につながった大きな闇に吸い込まれるようなそんな思いになる一冊でした。

2012年11月24日土曜日

視線を追いかける 『演劇1』『演劇2』を観て

(English follow after Japanese)

 『カガクするココロ』、『北限の猿』、『サンタクロース会議』、『砂と兵隊』、ロボット版『森の奥』などなど、平田オリザ氏の演劇作品をこれまでいくつも観てきました。先日、その平田氏を追ったドキュメンタリー映画『演劇1』と『演劇2』を観ました。両方合わせて観ると5時間半を超える映画です。

 この映画を撮った想田和弘監督は、作品中にナレーションも音楽も使わないことで有名です。その点については、わたしはあまり意識しなかったのですが、体力と集中力を試される映画だと記憶していました。

 数年前、想田監督が精神病院とその患者を撮った『精神』という映画を観たことがあります。モザイクなしで病院、しかも精神病院を映すというのが話題になりました。わたしは観終わった頃には疲労困憊し、歩き慣れたはずの帰り道で迷子になったことを覚えています。それが個人的に重すぎるテーマだったからか映画のつくりがそういうものだったのかは分かりませんでした。
 そんな大変な思いをしたはずなのに新しい作品を観に行ったのは、平田氏の「秘密」を知りたかったという思いがあります。平田氏は鳩山内閣時の内閣参与として所信表明演説の作成に関わったり、演劇を国語教育に取り入れる活動をしたり、劇作家、演出家という枠を超えた活躍が知られています。そのずば抜けたマネジメント能力や、人を動かす政治的な力に瞠目することが度々ありました。

 彼の行く先々を追いかけた映像を観ていくうちに分かってきたことがあります。彼がやりたい演劇をやり続けるために、やれることは何でもやる、言えることは何でも言うという姿勢です。彼は演劇で教育を変えよう、地域を活性化しよう、メンタルヘルスのあり方を見直そう、と思って活動しているのではなく、演劇を続けるために自らが動き、人を動かしているのです。芸術を生業として生き残る一つのモデルが見えました。

 と、ここまでは平田オリザの「秘密」についてわたしが映画から読み取ったことです。ここからは映画そのものについて書いてみます。この映画は長編ゆえの疲労とは違う消耗感を引き起こします。体力を奪われるのですが不快とも言いがたく、むしろのめり込んでみたいような気もするのです。

 監督自身は自分の作品を「観察映画」と表現しています。今回の作品でも監督がひたすら対象を見て、見て、見て、そして撮って、撮って、撮ったものを、観るわたしがどこまでついていけるか、対決しているかのような思いがしました。映像はスピード感があるというわけではなくどちらかといえば、じっと見る、飽きるほど見る、しつこく見る、といった印象です。例えば、平田氏が秒単位で役者の台詞を調節する稽古場のシーン。稽古というよりもはや修行?と思うほど何度も何度も同じ台詞を繰り返させる光景ですが、なぜかこの場面が心に残っています。監督が見ていたものを、今わたしもここで観ている、と強く意識したシーンです。そのあたりに視線の「対決感」があったように思います。映画を観ているのではなく、映画と一緒に走っているような体験でした。

 そしてはじめに戻ります。体力と集中力は想田監督の視線の速度についていくために必要だったのです。これは帰り道で迷子になっても無理はない、と思いました。

 身体に響くこの不思議な映像体験を反芻してみると、これからも想田監督が何を撮るのかを気にし続けていきたいという気持ちが湧いてきました。わたしは身体を鍛えてそれに臨む所存です。
 

Following what he saw the object: "Engeki1" and "Engeki2"
"The Scientifically Minded", "Northernmost Monkeys", "In the Heart of a Forest", "Sand and Solders", ... I have been to see lots of plays written by Oriza Hirata. Last week, I watched documentary films, which were called "Engeki (Drama) 1" and "Engeki 2". They are about Hirata and his works. When you see both films, it takes more than five and  half hours.
Kazuhiro Soda, the director is famous for technique using no narration and no music in the works. For me, it does not a significant feature. His films required me  physical stamina and concentration. This is particularly noteworthy.
Few years ago, I have watched one of his films called "Mental". It gave people  lots of talk as he shot a mental hospital and patients there. I was so incredibly exhausted after watching it. I even got lost in the way back home. I could not tell it was because the theme was too touchy, or the film itself caused this fatigue.
Even I had that hard experience, I dared to go to see this film. It was partly because I wanted to decipher the "secret" of Oriza Hirata. For example, he was appointed as a special advisor of the Cabinet, and introducing drama to education, he worked beyond only playwright and director. I have been so amazed to see his vitality. Watching the film, I have gradually understood what is the driving power for him. The primal aim for him is he continued to write and direct his own drama. So he does anything he could do, says anything he could do for this aim. It made sense. He is not interested in changing education, revitalise communities, or improving mental health (There was a scene he talked as a lecturer for mental health conference in the film.). I  found out this is one model to survive as an artist in this society.
This is what I have read about Hirata from the film. Now I'm talking about the film itself. This film somehow brings exhaustion. It doesn't seem to be because of the length. But I didn't take it unpleasant. I rather wanted to be absorbed it this film.
Kazuhiro Soda calls his film as "observation film". In "Engeki 1" and "Engeki 2". It was like watching and shooting the subject lasting forever. I felt like being challenged by his work. I can describe his shooting style is watching without a brink, watching until he bored or watching persistently. There is one scene that impressed me the most. It was in a practice room. Oriza Hirata adjusts actors lines minimal level such as taking interval one second earlier or two second later. It was repeated again and again until we almost fell asleep. But I vividly felt that I was following what Soda has been watching when shooting. I did not feel like watching a film. It was as I was running while watching this film.
Back to the beginning. Why did I need physical toughness and concentration? I needed to follow Soda's way of watching subject. There is no wonder I got lost.
Now I felt like deciphering this experience of watching Soda's film. I am more than ever interested in what he is going to shoot next. I will train my physical strength and concentration to face it.

2012年10月22日月曜日

土偶と日常

 昨日のNHK日曜美術館「土偶 命の息吹から生まれたアート」を見ました。土偶好きの私は2009年に東京国立博物館の「国宝 土偶展」をわくわくと心躍らせて見たことを覚えています。番組の方はぼんやりと見ていたので詳細の情報には自信がありませんが、見終わった後に私の頭に浮かんだことを書こうと思います。

 ゲストのグラフィックデザイナーの佐藤卓氏は、土偶の直線と曲線の交差の表現に車のデザインに通じるものがあると説明し、縄文と現代の創造性の繋がりを浮き上がらせました。また、縄文人は万物に精霊を感じ土偶にそれを具現化しようとしたために、遮光器土偶のような、人間とも人間でないともいえる不思議な顔を作ったのではないか、と新説を語る考古学者の洞察にも、想像力をかき立てられました。

 番組の中でも取り上げられていましたが、技巧が凝らされた文様や、女性と男性の特徴が組み合わさったような土偶などは、現代の私たちにとって、解きたくてたまらない謎であり神秘です。でも、本当にそれはいつも謎で、神秘なのか?という疑問も私の中に浮かびました。もしかしたら、とてつもなく土偶づくりのセンスがいい人がいて、「ちょっとおもしろいの、作ってやろうぜ!」とやってみたらできちゃいました、というのも実はあるのではないか?と。自然への畏怖、豊穣への祈り、鎮魂など様々な意味が土偶に込められていたことは想像できますが、何となく作りたくなって、思わず作った、という土偶も実はあるような気がします。

 そうすると、縄文人は、現代人の私たちと何も繋がりのない、未知の宇宙人のような存在といえるのだろか、と思えてきます。私の日常は、縄文人が過ごした日常が連なって、歴史が続いた後に現れたものであるはず。だとしたら縄文人の土偶は、まったく知らない誰かが残した謎とは言いきれないと思えてきました。文字が残されていないから分からないだけで、今の私が感じる恐怖や、心が満たされる思い、驚きなど、縄文人も同じように感じたのではないか、と想像できます。何万年、何千年前の人たちの暮らしは原始的で、情報も知恵も今より断然劣っていたかもしれませんが、私たちもその歴史の流れの先に生きていると感じます。

 そんなことを考えていて、最近読んだ舞城王太郎の小説『美味しいシャワーヘッド』の、このような一節を思い出しました。「思い出も思いも空想も行われなかった秘密も、全部言葉で語られるが、言葉にできない物事もある。言葉では掬いきれない小さな、細やかないろいろだ。でもそれらは記憶に残っていないんじゃなくて言葉にできないだけで、全部僕の中にあるはずだ」

 文字を残さなかった縄文人も言葉で語る私たちも、空想や秘密、小さな、細やかなもろもろを全部自分の記憶に残しているのだと思います。遠い過去を振り返ると、遥か向こうにいる縄文時代の誰かと、目が合うような思いになりました。
 昨日は土偶ひとつで妄想が、次々と泡のようにはじけました。楽しかった!


2012年9月30日日曜日

芸術と科学、その先にみえるもの

 芸術と科学の関係を思わぬところで目にしました。JT生命誌研究館が発行している、生命誌ジャーナルというウェブ季刊誌の2006秋号です。少し前の記事ですが、色あせない内容だったので取り上げたいと思います。
 
 JT生命誌研究館の館長である中村桂子さんと、名誉顧問の岡田節人さんの対話です。中村さんのお名前は色々な媒体で拝見していましたが、生命誌研究館とその具体的な活動については初めて知りました。
 中村さん、岡田さんともに生物学の専門家、対話のタイトルは「知と美の融合を求めて」です。
 
 その中で岡田さんの「学問でも芸術でも同じです。」という発言が目を引きました。これは中村さんの「『わかる』という言葉は曲者です。それと最近の曲者は『役に立つ』。すべてはこの二つで片づけられます。危険な言葉ですね。」という発言を受けたものです。はっ、と思いました。これはまさに、私が芸術にもやもやしていたことに似ている!「わかる」と「役に立つ」で解決しないものはなかなか価値を説明できないし、人を動かせない、というのは芸術の世界にも当てはまると感じてきました。

 分からないことに意味がある、という中村さんの言葉に続いて「近頃は、ますます暗黙値以上の神秘の世界に生きたいと願っとる男ですから、わかっとるわかっとらんかと言うような話を聞くと、まあ、なんとも低級な言い方をすると呆れます。」という岡田さんの言葉は、清々しすぎて笑いがこみ上げてきました。しかし、中村さんによると、分かること、それを役に立たせることが学問の主流になっているということです。

 少し長いですが、中村さんの言葉を引用します。「一つをわかると、そこからわからないことが生まれてくる。そういう広い世界が見えてくるのが専門家だと思うのです。わかった一つから、さらに見えないことをどう見通すかというところが、専門家の腕の見せどころではありませんか。専門でない人は、言われたところだけ見てしまうから、広く見えている専門家が語るべきところは、むしろわからないところだと思っています。ところが社会はわかったことだけを求めるようになってしまった。」

 芸術も同じように、今目の前に見える先の世界を押し広げることで、価値や面白さを引き出し、人の心を動かすような衝動を立ち上げます。まさに、わかる、わからないの境界に切れ目を入れ、役に立つことだけを価値判断にしないことです。
 
 もう一つの問題としてアンケートを取り上げています。中村さんはこの施設の活動計画にアンケートを導入することを信用していないそうです。予算をつけるためにアンケートで集計し、時代が要求しているからこの活動をしましょうというのでは、新しいことはできない、と中村さんは指摘します。アンケートから導きだそうとしていることは「わからないことに価値と可能性がある」という考えから最も離れているということだといえるのでしょう。

 芸術に関していえば、派手で受けがよく、人が集まるものには力が入れられて、堅実だけど地味なものが蔑ろにされる場面を見るにつけ、私はいつも「なんでも面白きゃいいのか!」と毒づいています。しかしお二人はもっと洗練された言葉で、「学問や芸術が娯楽化してしまったことが問題である」と語っています。

 この対話は中村さんの次のような発言にまとめられると思います。「生きていること、生き物、自然・・・。そういうものを題材に言語化した作品を作っていき、それが品のある娯楽になる。」ここで言われている言語化とは、芸術においていえば、視覚、聴覚などによって成り立つ芸術表現であるといえます。

 専門、というと、それぞれ独立した狭い世界を想像しがちですが、お二人の対話からは、専門の世界を突き詰めると、どこかで水脈がつながっているという気がしてきます。そうならば、どんな学問の分野にも芸術を理解する考え方が隠されているし、その逆もありえます。ずいぶん長い間、勝手にもやもやして煮詰まっていましたが、新しい道がみえてきました。

生命誌ジャーナル2006年秋号[知と美の融合を求めて]