2015年10月30日金曜日

誰かの眼を借りて

  9月6日「観ると撮る〜美術館体験の拡張」というタイトルで、来館者が美術館で写真を撮る風景について書きました。MoMA、ルーブル美術館などでは来館者がなし崩し的に写真を撮るようになり…と書いた写真雑誌の記事にも触れましたが、私は新しい鑑賞のかたちだと感じており、こうした流れにはポジティブです。

  そうしたところ、アート情報サイト、Art Annual online(アートアニュアルオンライン)で美術館がインスタグラムのアカウントを作って来館者の写真をシェアしているというニュースを見つけました。私は苦々しいニュアンスの意見を紹介しましたが、すでになし崩しではないではないか!積極的に使っているではないか!と拍子抜けしました。ルーブルの他にはMoMA、TATE、メトロポリタン美術館、大英博物館などがアカウントを作ってPRや来館者と美術館とのコミュニケーションなどに利用しているそうです。日本では山種美術館、森美術館、ポーラ美術館がアカウントを開設しています。

  ルーブルのアカウントは、今日現在で投稿が445件あり、なんとフォロワーは29万人を超えています。子どもがケースにかぶりついて彫刻を見つめている写真や、展示替え?で職員が石像を動かしている写真には臨場感があります。夕闇に光るガラスのピラミッドや敷地内の紅葉を撮った写真には場所の空気を感じます。画集や公式サイトは「こう観てほしい、一番いい状態を観てほしい」という意図の写真が使われますが、インスタグラムは来館者の視点で切り取られていて、お土産話を聞いているようです。

  私が美術館教育や鑑賞教育などに関わったり学んだりしていた15年〜10年前は、レプリカやモチーフの教材キットや、バンに作品やハンズオン教材を乗せた移動美術館などで実際に行かなくても学びを深められる手法をよく見かけました。まあ、それはそれで作品に触れる体験ではあるのですが、モノだけに頼っているところに美術館体験として物足りない部分がありました。       

  もちろん、インスタグラムだって実物ではないし、場を体感するわけではないけれど、「この人はこれに注目して写真を撮ったんだ」「この風景に心奪われたのか」と思いを馳せられるのは、会ったことのない誰かの眼を借りた親密な美術館体験です。作品そのもの、美術館そのものではないのに、手触りがあります。単純に素朴に、技術の進歩はすごいなあと関心するとともに、美術館での人との関わり方、体験や思いを共有するあり方に変化の可能性を感じています。















2015年10月3日土曜日

私たちのリベラルアーツ

 6月に政府が出した、国立大学の人文科学社会科学系学部の縮小あるいは閉鎖を求めた通知が波紋を呼びました。国立大学は「社会的ニーズに応える分野を担う」のが理由だそうです。人文科学をないがしろにすれば、単に生きることはできてもよりよく生きることはできない、とか、一見役に立たないものから創造的なものが生まれることを忘れるなかれ、など憤りの声がアカデミックの分野や文筆家から噴出するのも散見しました。


 一部のメディアによる誤解だと文科省は釈明していますが、海外からもこの動きを危惧する声が上がっていたので紹介します。The Diplomatというオンラインマガジンに、テキサス大学オースティン校のJohn W. Traphagan教授が寄稿したものです。The Diplomatはアジア太平洋の政治や社会、文化などを取り扱っています。Traphagan教授は、文科省の思惑に対して、日本はリベラルアーツを否定しているのにポップカルチャーを世界に輸出しようとしている、と痛い矛盾を突いています。


   欧米からの批判に弱いのは日本人にありがちで、日本文化の例としてハヤオ・ミヤザキという印籠を出されるのも食傷ぎみですが、彼があげる二つのキーワードは核心を突いていました。


  なぜ社会科学や人文科学が必要なのか、彼は、interpret our world(私たちの世界を解釈する)、work with others(他者と協働する)の二つを実現するためだと書いています。この二つは社会的ニーズというどこかからの要請ではなく、「私たち」が解釈する、「私たちが」協働するといった、個人がどうあるかという視点です。主体は私たちです。


個人と社会的ニーズの関係について考えていたとき、ずいぶん前にラジオで聞いた経営者のインタビュー番組のことを思い出しました。うろ覚えなのですが、アウトドア用品会社の経営者がゲストで、MCが「お客様のニーズに応えるためにどんな工夫をしていますか」と聞いたところ「(外からのニーズというより)社員が登山などで使ってみて必要だと思ったものを開発しています」というニュアンスのことを言っていました。MCは引き下がらずお客様の…と繰り返し、聞かれた方も戸惑っていて、噛み合ってなくない?とつっこみを入れたくなりました。ニーズの設定が入口ではなく、個人一人ひとりが積み上げた知見や分析によって商品を具体化していということは、この会社には無駄足かもしれないことや取りまく環境を理解することに時間をかける文化があるのではないかと感じました。


 ビジネスの話なので社会学、芸術、文学、倫理学といった学問と直接つなげるのは荒っぽいですが、Traphagan教授の「よい働き手とは、創造的思考ができ、人間との関わりの中でコンテキストを理解し、道義にかなう行動をする」という言葉にも通じると思います。


  ちなみに前出のブランドの寝袋、私も持ってます。


 

2015年9月6日日曜日

観ると撮る 〜美術館体験の拡張〜 

 スマートフォンを高々とあげてモナ・リザを撮る来館者たちを後ろから撮影した写真が、ameicanPHOTOという写真情報サイトのコラムに載っていました。なんというか、美術館で写真を撮るイケてない人たちの図っぽい。


 しかし2010年あたりから、MoMAを始めとしてニューヨークの美術館では、来館者の撮影を許可する流れになってきたようです。コラムの冒頭は批判的で、写真家は作品へのダメージや著作権など多くの課題と妥協しながら撮影してきたのに、美術館はなし崩しで撮影を許可し始めている、という論調でした。


 先月森美術館で観た「シンプルなかたち」展でも、来館者が作品を撮影する光景に遭遇ました。
 
 通常の展覧会では珍しいことですが、森美術館の企画展は、営利目的で使わないことを条件に撮影可能な作品がいくつかあります。今回は3点のインスタレーション作品が撮影できました。ただ、美術館側が撮影可能な作品をコントロールしているので、なし崩し的な例とは同じではないことは前提です。


 友人から聞いてはいたものの、静かに鑑賞している人たちが特定の展示室で写真を撮りはじめるというのは意表をつきました。オラファー・エリアソンの展示室では、「ほらほら、そこに立ってて」と不機嫌な息子にiPhoneを向けているお父さんに名所旧跡感があったり。邪魔してスンマセン、と恐縮しつつ展示室に入って罵声を浴びる…ことはなかったです。


 と書くと、作品もロクに観ないで写真を撮るなんて、ケッ、無粋な!と鼻息荒くなってる人だと思われそうですが、私は美術館の新しい風景だと感じました。コラムでは、「写真を撮ることで美術館の体験を記憶するのではなく、(写真の)イメージによって美術館を体験しているのだ」という意見も取り上げています。写真は記録媒体ではなく、体験の仲立ちするものに変化していると言い換えられるかな?森美術館も、写真を撮るという選択肢を鑑賞の一環に加わえて、SNSで共有するところまで想定して鑑賞に広がりを持たせているともいえそう。


 実をいうと、私はゲキ重い一眼レフを持っていってモタモタしただけでした。これこそ無粋でありますね。


2015年9月2日水曜日

一般国民の私とオリンピックエンブレム問題

 東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会がエンブレムがを白紙撤回しました。このまま行くんじゃない?という展開を予想していたのでびっくりというか、でもやっぱり、というか。

 1日の大会組織委員会の会見によると、エンブレムに関してはデザイナーは模倣していない、しかし一般国民の理解が得られないというのが理由だそうですが、いまひとつ撤回の決定打が分かりませんでした。法的には問題ないし独自性があるとしているなら使用できるのでは?そして「一般国民」って誰だろう?という二点が私の疑問です。オリンピック自体にはあまり興味のない一般国民の私ですが、法的な課題については前回のブログに書いた通りで、権利問題がなければ当初のエンブレムを使っていいと考えています。

 また、今回はデザイナーへの個人攻撃というか、ネット上の私刑のようなものが広がっているところにも気味の悪さを感じました。

 これから公募で決められる新しいエンブレムが、「一般国民」に受け入れられることになるのか、注目どころです。それまでには、オリンピックのエンブレムというものがどんなコンセプトで、何を目指してデザインされるのかを理解できる一国民になっていたいと思っています。

参考にしたのはこちらのNHKニュースです。

2015年8月28日金曜日

パンチ&デストロイ 名画に穴! in 台湾


   全世界の美術館・博物館関係者が白目をむきました。まずこちらの映像をご覧下さい。




中央社のYouTubeより

   台湾で開催中の展覧会で、12歳の少年がつまずいて150万ドル(約1億8000万円)の油絵に穴をあけてしまったのです。よろけたひょうしに右手でカンバスを思い切りパンチしているのが監視カメラに写っています。油絵は300〜400年前に描かれたパオロ・ポルポラという画家の作品で、イギリスの新聞The Guardian(8月25日)は「まるで悪夢が現実となったスラップスティックコメディのようだ」と書いています。笑っている場合じゃないよ。

   記事では「少年はアート界の困ったちゃんリストに名を連ねた」という前置きで、来館者が作品を破壊した例を紹介しています。靴ひもを踏んづけて転び、300年前の中国の花瓶を割ってしまった男性、ピカソの絵に倒れ込み15cmも破いてしまった女性、論外なのは、モネの名画を故意に破壊したとして逮捕されたアイルランド人の男性です。

   ところが26日、事態は急展開をむかえます。この名画は別の作家の作品によく似ており、価値も3万4000ドル(約41万円)以下かもしれないというニュースを時事通信が配信しました。これは本格的なコメディに舵が切られた予感がします。

  いや、贋作疑惑というサイドストーリーに惑わされてしまうのは美術館・博物館関係者には本意でないと思います。もっとつっこんで欲しいのは、展示方法や会場マネジメントの隙です。くわしく映像を見るとわかるのですが、油絵の手前にはロープが張られているだけでなく一段高くなっていて、何かに気を取られていたらひっかる可能性があります。少年の右手には飲み物を持っているのも確認できます。これはアウトだねー。

  わたしは美術館側の視点で見ているので主催者に工夫が欲しいと思いますが、来館者にすれば、ガチガチに管理された空間ではなく、気軽に名画に触れられた方がいいという見方もあります。そのあたりの意図と要望をどうすりあわせるかはやはりプロである美術館が担うものだと思います。

Boy trips in museum and punvhed hole through painting | The Guardian (25 Aug 2015)

2015年8月26日水曜日

「全く似ていない」オリンピックエンブレムとリテラシー

 オリンピックエンブレム問題にモヤついています。


 東京オリンピックのエンブレムが、ベルギーの劇場のロゴを盗作したものだと指摘された、あの件です。それ以降、あれも似てるこれもパクリだとあら探しが盛り上がったり、おもしろ半分に考えた新しいロゴをTwitterにのせたりしているのを見聞きします。ヘラヘラしている場合じゃない、このロゴは盗用なの?問題ないの?いちばん知りたいのはそこです。だってもうCMにも使われてるし、オリンピックは5年後じゃん!


 そのあたりを、ラジオっ子が大好きなTBSラジオ「荻上チキ・Session 22」(8月18日放送)のゲスト、弁護士の福井健策さんが解きほぐしてしてくれました。


  盗用かどうかを判断する前に、まずは商標権と著作権の二つを区別する必要があります(ここからして知らなかった)。商標権はトレードマークやロゴ、ブランドネームなど、国や地域ごとに登録されているもの。ベルギーの劇場のロゴは、商標登録されていません。一方、著作権は音楽や映像などの著作物が対象で、世界のどこであっても模倣は侵害とみなされます。


   では東京オリンピックのエンブレムについてはどうでしょうか。


 法的には、ロゴやマークなどは著作物にあたらないそうです。そうしておかないと簡単なシンプルなロゴなども全世界的に独占されることになり、使えなくなる可能性があります。一方、著作物は、より複雑なものを対象として、長く強い権利を与えてバランスを取っています。


 アルファベットのもじりはある程度似てくるので、今回の件では侵害は認められにくいというのが福井さんの意見です。


   それなら堂々と使おうよ?ということにならず、デザイナーの神妙な会見ばかりがクローズアップされています。福井さんは、論点はエンブレムのデザインなのに、デザイナーがいい人か悪い人かという話に拡散していることに違和感があると言っています。国際的な大規模なイベントではこういった問題はよく起こるので、慌てずに、というのが福井さんの弁です。


  この一件では、私たちが正しい情報にアクセスし、それを根拠に判断できるリテラシーを持っているかどうかを問われたと感じました。エンブレムがパクリかどうかという議論に、私たちは妥当な反応ができていたでしょうか。


    オリンピックほどの規模はあり得なくても、同じように判断に迷うできごとは私たちの身近には多々あります。そんなときは、感情的にならないで、落ち着いて、知恵をあつめて解決する。それが真摯な態度だと思います。

  やや広げすぎた風呂敷を畳みきれないままですが、今日はこれにて終了といたします。

2015年8月16日日曜日

アムステルダム国立美術館だョ!全員集合


 遅ればせながらドキュメンタリー映画『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を観ました。レンブラントの『夜警』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』などの傑作を所蔵していることで有名な、アムステルダム国立美術館の10年に及ぶ改修を追っています。粛々と進められる歴史的美術館の改修…なのかと思いきや、粛々なんてとんでもない、ゴタゴタに次ぐゴタゴタに振り回されっぱなしの舞台裏が明かされます。


 冒頭、巨大な重機がコンクリートの壁を噛み砕くシーンに不穏な音楽が流れます。美術館の再生という華やかな題材にしては違和感があるのですが、これは、大いなる不安の予兆なのでした。


 自転車が通れるスペースが狭い!意気揚々とエントランスの構想を語りはじめる建築家に、初っぱなから市民から反対意見が噴出します。これを皮切りに、大臣から景観保全の要請、度重なる建築案の変更、工事の中断、など難題が次々ふりかかります。そんな事態が起きるたび学芸員も建築家も、もちろん館長もてんやわんやです。でもなぜかそこにはコミカルさも漂います。始めは「美術館のコレクションは王室のものではない、市民のものですから、わはははは!」と、よく通る太い声で語っていた館長からついに、「納期に追われる方がよっぽどましだ!」という本音がこぼれます。この時点で彼の目はもう笑っていません。折衝ミーティングでは、(もうおうちに帰りたい…)という表情を浮かべているスタッフの顔にカメラが向けられます。混乱に乗じて自分のキャリアアップを密かに期待するハンサム学芸員も登場します。そんな中で「アジア館には金剛力士像を置きたいんだ。一週間家にこもって展示室の模型を作ったよ。40年後に『おじいちゃんがここを作ったんだよ』って孫にみせてあげたいな」というマイペースなアジア館部長のキラキラした瞳ったら!


 国立美術館の改修という歴史的な場面でスパイラルする、情熱と失望、あきらめとタメイキを、この映画は見事にすくいあげています。生きていれば必ずどこかで起きる、こんがらがった人間模様です。めでたしめでたしの大団円ではないけれど、みんなが望むエンディングではなかったかもしれないけど、私たちは日々途方に暮れながら生きていく。美術館に集まった人たちの表情が、そうやって人生は続いていくことを物語っています。