2009年4月5日日曜日

いいデザイン、正しいデザイン

 東京都美術館の「生活と芸術ーアーツ&クラフツ展」を見に行きました。ちょうど桜が満開で、上野は今まで見たことがない程の人出でした。さて、この展覧会はイギリスのヴィクトリア&アルバート美術館との共同企画で、イギリス、ヨーロッパ、日本という3つの括りでアーツ&クラフツ運動について展示しています。私が初めてアーツ&クラフツ運動に触れたのは、2000年、今はもうない伊勢丹美術館で「マッキントッシュとグラスゴー・スタイル」という展覧会においてでした。直線的なデザインに草花や人間など有機的な形が組合わさった作品は、私の印象に深く残りました。今回もアーツ&クラフツ運動の父と呼ばれるウィリアム・モリスを始め、マッキントッシュはもちろん、モダンな銀器をデザインしたドレッサーの作品も展示されていました。さらに、この運動がヨーロッパへ広がり、最後のコーナーでは柳宗悦が率いた民藝運動を日本のアーツ&クラフツと捉えた展示構成となっていました。場所を越えて一つの輪がつながったような、とてもよい構成の展覧会でした。

 帰り道、お花見客の合間を縫って戻る途中、別の美術館に「アーツ&クラフツ展」の別のチラシがおかれていました。「Have you ever thought of correct design as well as good design? いいデザインだけでなく、正しいデザインについて考えてみたことがあるだろうか」という文字が並び、裏にはプロダクトデザイナーの深澤直人氏のことばが記されていました。正しいデザイン、私は考えたことがありませんでした。いいデザインについては好き嫌いはあるにしてもはっきりと言えますが、「これは正しいデザインだね。」というのは何だか不思議な響きです。しかし、これがアーツ&クラフツ運動の本質を表すものなのだなあ、ということがじんわり感じられました。深澤氏の文章によれば「社会の不正義を正す万能薬として、正直で充実した生活を目指す哲学の基礎となる」アーツとクラフツのあり方が19世紀末のイギリスで始まり、形や素材が変わりながらもその哲学が共有されてきたことに、ぐっと深いものを感じました。

「アーツ&クラフツ展」ウェブサイト


2009年2月23日月曜日

初心に戻って

 銀座のメゾンエルメスの8階へ、Janet CardiffとGeorge Bures Millerの展覧会のオープニングに行きました。6年前、2003年にロンドンのホワイトチャペルギャラリーでみて、修論の事例で取り上げた展覧会の作家が来るということで、とても楽しみに出かけました。作品はその時と同じ『40声のモテット』が来ていました。会場をぐるりと囲んだちょうど大人の頭の高さにあるスピーカーから聖歌隊の合唱が聞こえるというものです。

 私は修論を書くにあたって、美術作品と美術館の場所の関係、美術館空間での来館者体験の特別さとは何か、について書きたくていろんな展覧会を見に行きました。この作品は、会場に入った途端に人々の振る舞いが変わるような面白い作用があると感じ、事例に取り上げました。宗教音楽という厳かな音と美術館の空間、そしてその場に入った途端に人々がスピーカーに耳を傾け、中央のベンチに座る様子はまるで振り付けられたような印象もあり、しばらくその場にいて人々の動きや表情を観察したのを覚えています。それ以来、美術館空間がもつ特別さ、人々の振る舞いを規定する力に興味を持ちつづけてきました。この課題についてはまだまだ答えは出ませんが、久々に初心に戻るような清々しい思いを持った夜だったのでした。

2009年2月21日土曜日

子どもたちの笑顔の先に? 〜岩井俊雄の特別授業〜

 NHK教育のETV特集『目覚めよ、身体、感覚の宇宙〜メディアアーティスト岩井俊雄の特別授業』(2月15日22:00〜23:00)を見ました。こちらでも書きましたが、TENORI-ONの作者であり、私が最も敬愛するアーティストの一人である、岩井俊雄氏が小学校で授業を行うという番組です。私は以前から、二人のお嬢さんとおもちゃづくりをしている岩井氏の日常を彼のブログで拝見しており、家庭を飛び出して、学校教育の現場で彼の創造性がどのように発揮されるのかとても楽しみにしていました。

 学校から依頼されて2週間で6学年に授業を行うことになった岩井氏。先生たちへのプレゼン、事態を把握しきれない先生たちにも粘り強く思いを伝え、図工室や音楽室でおもしろそうなものを探し、授業内容を練り、ちょっとした躓きもあり、そして・・・と番組は進んでいきました。それを見ながら私は「この番組の落としどころは、どこになるのだろう?『無事授業が終わってめでたしめでたし』ということになるのかしら・・・?」と妙な気持ちになってきました。果たして番組は、岩井氏がナビゲートする世界に全身で引き込まれ目を輝かせる子どもたち、そしてほっと安堵と達成感を見せる岩井氏、で終わりました。その後、私の妙な気持ちは2時間程続きました。

 その気持ちとは、「確かに子どもたちは楽しかった。先生たちも保護者たちも一緒に楽しんでいた。岩井氏は汗だくで頑張っていた。そして彼のクリエイティビティは余すところなく発揮されていた。でも、それでよかったのかなあ?」というものでした。私が一番気になったのは(TV番組というバイアスはかかっているにせよ)先生たちが及び腰の中、岩井氏が学校教育の現場で一人奮闘している「無理な感じ」です。私も無理な要求をしていると自覚していますが、岩井俊雄というアーティストが教育現場に飛び込んだのに、彼がそれを一手に背負ってしまうのはもったいないと感じたのです。

 たまたまラッキーなことに実現した「特別授業」ではなく、学校教育に何が必要だからこの授業をするのか、子どもたちはこの授業を受けて将来的にどうなってほしいのか(多分、みんな彼のようなアーティストになってほしい、ということではないはずです)、という広いところまで先生たちも含めてミッションを構築して、岩井氏にそのプロジェクトに入ってもらうという形になれば、別のジャンルのプロフェッショナルたちにも同じように、子どもたちの目を輝かせる授業を行ってもらうことが可能になるのではないかと思います。そこに必要なのは、プロデューサーのような存在なのでしょうか、それともマネジメントやコンサルティングのようなものでしょうか?私にはまだはっきりした答えは見つかっていません。

 アートはアートの世界だけで完結すべきではない、社会に何かを投げかけてこそアートの力が発揮されるはず、と最近考えている私には、この番組はかなりヘビーな課題が満載でした。



2009年2月16日月曜日

貧困・教育・芸術

 近考えていることを少し。先日、『子供の貧困ー日本の不公平を考える』という本を読みました。昨今の世界的な金融危機と経済悪化の中、教育や次世代育成にどんな影響が波及するのだろうか、と思っていた時に見つけたました。OECDの調査データをもとに、日本に見られる子供の貧困問題について分析しているものです。調査によると、日本の相対的貧困率はアメリカに次いで2位なのだそうです。にわかに信じ難い数字ですが、そこには「格差」どころではなく「貧困」の問題として取り組まなければならない現実があるということです。本書では、定量的なデータを用い、親の貧困が子供の貧困へと連鎖し、子どもを教育の機会からも遠ざけてしまうという問題を大変鋭く読み解いています。

 中でも私が興味を持ったのは、経済的理由で進学できない、という問題だけでなく「努力」「意識」「希望」に格差を生じている、という点でした。安心感を持って子供時代を過ごすことが、その後の人生に大きな影響を与えることに気づかされたのです。貧困問題は、間接的にかつ長期的に、自尊心を持つことや、他者を理解しようという思い、自分の力を試そうとする原動力にじわじわと作用するのものなのではないかと思いました。

 そこでふと思い出したのが、ベネズエラのエル・システマという音楽教育制度です。これは1975年指揮者のJose Antonio Abreuによって設立されたもので、クラシック音楽の教育を通じて、貧困層の子どもたちが麻薬や犯罪に染まるのを防ぎ、彼らの可能性を育て地域社会にポジティブな影響を及ぼすことを目指しています。昨年の12月にエル・システマのオーケストラである、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(SBYO)が来日公演をしたことをご存知の方もあるかもしれません。着目すべきは、エル・システマが30年以上活動を続け、かつ社会にもインパクトを与えているという点です。エル・システマ出身の指揮者、Gustavo Dudamelは2007年にSBYOを率いてロンドン公演を行ったときのインタビューで、「音楽のお陰で、犯罪や麻薬といった悪いものから自分を遠ざけることが出来た」と語っています。貧困と教育という二つの課題に対してこれだけ時間をかけて取り組み、実際に子どもたちに自信を与え、可能性に向き合える機会を与えたという点に圧倒されました。日本でこういった取り組みがそのまま有効かどうかは別の問題ですが、一つの取り組みとして力のあるものだと感じます。

 さてこの次私が考えるべきことは、博物館や美術館は貧困と教育の問題にどんなアプローチが与えることができるか、ということです。博物館や美術館は、子どもたちが努力し、希望を持つ力、そして社会を変えていこうという意識を獲得する場となりうるのでしょうか。できるとすれば、それはどんな形で実現するのでしょうか。経済危機は、こういった課題を考えるきっかけを与えてくれたといえるかもしれません。


『子どもの貧困ー日本の不公平を考える』
阿部彩 著
出版社:岩波書店
エル・システマ 英語ウェブサイト


2009年1月24日土曜日

熱狂現代美術

 やっと『Seven Days in the Art World』を読み終わりました。いやはや、生き馬の目を抜くとはこういうことかと思わされる世界が描かれていました。他人に出し抜かれないよう、そして常に優位に立てるように振る舞う現代アート界の住人たちの記録、という趣の本でした。

 何よりも面白かったのは、実在する登場人物たちの描写です。着ている服、アクセサリー、立ち振る舞い、表情まで詳細に描かれており、それが一層この世界の熱に浮かされたような現状が目の前に広がるような気持ちになりました。著者であるSarah Thorntonが有名コレクターとアートフェアをまわっていた時、とあるギャラリストがコレクターに向かって「彼女はあなたの新しいコレクション?」と耳打ちするところを聞いてしまった場面や、アートマーケットを動かす力を持つアート雑誌オーナーのスノビッシュで回りくどい話し方、などなど、あちこち突撃取材を敢行する著者のちょっと毒気が効いた筆遣いに苦笑させられたりもしました。

 私が勉強していた博物館学部でも、現代アートや美術館の現状について取り上げることもありましたし、現代アート志向の人もいたので、ここに書かれているのは全く知らない世界ともいえませんでした。しかし牧歌的とも家庭的ともいえたあの学生生活とはあまりにもかけ離れた世界に、しばし呆然とする一冊だったのでした。

2009年1月11日日曜日

年末インド、そして年明けブラジル

 森美術館の企画展『チャロー!インディア』と東京都現代美術館の企画展『ネオ・トロピカリア』とについて少し。両展覧会は「経済成長著しいBRICsの二大新興国、インドとブラジル。二つの大国の現代アートを紹介する展覧会の開催を記念して、森美術館と東京都現代美術館では相互割引を実施いたします。」とのこと(森美術館ウェブサイトより)。今日、『ネオ・トロピカリア』展を観に行って初めて知りました。非常に個人的な感想なのですが、実は年末に『チャロー!インディア』を観に行った時、面白いのかつまらないかよく分からず、それ以前に自分が好きか嫌いかも判断出来なかったことでとても記憶に残っている展覧会でした。そして今日、『ネオ・トロピカリア』を観て「あー!とても素敵な展覧会だったな!」と充実感いっぱいで帰ってきました。短期間にこんな極端な気持ちになる展覧会がこんな連携を取っていることに、不思議な縁を感じました。

 そもそも、展覧会で「好きか嫌いか分からない」と思うことはあまりない体験でしたので、年末年始にこの気持ちを消化したいと思っていましたが、未だ答えが出ないままだったのです。「結局私たち、インドの現代美術に興味がないってこと?」と一緒に観に行った友人と話したのですが、それでは何か言い足りない気がします。なんと言うか、共感ポイントの少ない展覧会だったなあ、というぼんやりもやもやした気分でした。一方『ネオ・トロピカリア』ですが、特に私はブラジルに興味はなかったものの、「この気持ち、分かるよー。」と思える作品が多かったです。例えば、野菜やパンを小さく切って重ねたり、並べたりして写真を撮ったり、アリにキラキラの紙を運ばせた映像作品を作るリヴァーニ・ノイエンシュヴァンダー、町並みの外壁をカラフルな色に塗り分けたルイ・オオタケなど。自分の趣味が合ったか、合わなかったかの差、と言われればそれまでなのかもしれませんが、なんと言っていいのか分からない展覧会と、誰かに話したくてたまらない展覧会の違いをうまく説明できれば、展覧会体験を新たな言葉で語れそうな気がしました。

森美術館『チャロー!インディア』ウェブサイト

東京都現代美術館『ネオ・トロピカリア』ウェブサイト

2009年1月3日土曜日

市民を見くびるな

 『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』という本を読みました。大英博物館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、シカゴ美術館、J・ポール・ゲティ美術館、MoMA、メトロポリタン美術館といった欧米の主要美術館館長、館長経験者が行ったシンポジウムをまとめたものです。「市民の信託」というサブタイトルに惹かれて手に取ったのですが、原題では「Public Trust」と表現しています。英語「Public」と日本語の「市民」という言葉の背景にある重みというか意味合いに違いがあるのではないかと感じましたが、今回は各氏の議論に焦点を当ててみたいと思います。

 それぞれの議論はやや美術至上主義的な、美術史界のエリート大集合といった雰囲気も感じられましたが、現場を厳しく見てきた経験によるとても示唆に富んだものでした。私が普段何気なくしかし同時にもやもやとした違和感も持っていた「美術館は誰のものか」という疑問について言葉を与えてくれる本でした。

 特にNYのメトロポリタン美術館館長、フィリップ・デ・モンテベッロ氏の講演はとても私の心に響きました。彼は前半で、美術館が市民の信託を得るために真の学究の証である純粋さ、謙虚さを示す「威信」、そして政治的意図や市場原理で歪められることのない「オーセンシティ(真正さ、本物であること)」が必要であると語っています。これらのキーワードに基づき、現在の美術館が置かれている状況をこう語っています。美術館は規模が大きくなるにつれ運営が困難になり、資金を確保するというプレッシャーのために美術館の方針を本来的な使命ではなく、市場原理に委ねている。さらに来館者が美術館の新たな焦点となり、過剰なまでの催事と展覧会が行われている。ここで彼は、美術館が来館者に焦点を置くことで奇妙なパラドックスが生まれる、と指摘しています。「芸術作品ではなく来館者を中心に据えると、来館者がよりよい奉仕を受けることにはならず、(中略)美術館が来館者の興味を引きつけ、喜ばせようとすると、必然的におもねる姿勢が生まれるでしょう。つまり、来館者の数が重要なのであれば、その質が問われることはないのです。(中略)あらかじめ集客を見込める展覧会を際限なく繰り返すならば、人々の視野が十分に広がることはありません。そうなれば、人々は美術館に対して、より多くを求めようとはしなくなるでしょう。」(pp.214-217)

 これはなかなか強烈な批判です。まさに私がうっすらと嫌悪感を抱くメガ展覧会の一面を表していると思いました。来館者が沢山入ることによって成功が量られ、その内実、展示室の中は込み合うばかりで落ち着いて鑑賞することが出来ない、という展覧会を私たちは少なからず体験しています。センセーショナルで派手な展覧会に対する苛立ちや物足りなさは、来館者に対するどこか不誠実な振る舞いによるものだと私は感じていました。デ・モンテベッロ氏はメトロポリタン美術館館長という経験から、集客をねらった企画と、真剣な目的を持って行われた展覧会の違いを市民は十分承知している、と力説しています。これは市民の反応に過敏になれ、ということではなく、美術館が市民に迎合していないという意識、信頼に基づいた評価を市民から得られるかどうかが問題だと言っています。私たちは、メガ展覧会に偏重することで彼らが言うところの市民と美術館との信頼関係を、信じようとしてこなかったと言えるのではないでしょうか。

 他の6人の議論も切り口は違うものの、美術館が市民に対して果たすべき責任、つまり娯楽産業と競合して安易な楽しみを提供するのではなく、理解に時間はかかっても美術と向き合うことには価値がある、ということを伝えるべきという主張をしており、とても勇気づけられる一冊でした。さて、私にとって次の課題は日本の中での「市民=public」とは何か、について掘り下げて考えることになりそうです。

『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』
編:ジェイムズ・クノー

出版社:ブリュッケ