2012年7月17日火曜日

アートもメッタ斬る!

 今日は第147回芥川賞と直木賞の発表があります。なぜこのブログで取り上げるかといいますと、新潮6月号で読んでとてもココロを掴まれた戌井昭人の「ひっ」が芥川賞の候補に挙がったのがひとつ。もうひとつは、賞について大森望と豊崎由美が対談した「文学賞メッタ斬り」が、アートを鑑賞することに重なるように思ったというのがあります。

 「メッタ斬り」は、書評家の二人が候補作品を批判したり評価したり、選考委員のセンスを問う対談で、これまで書籍にもなっています。一般の人にはよく分からないもやもやした文壇ワールドを垣間見られるのがポイントです。今回はラジオ日本での事前予想番組を聞いたので、その胸がすく語り口、時折爆笑する程の毒舌がたまらなく面白かったです。1時間強の番組に、候補作が選ばれた理由を探る、選考委員のセンスに斬り込む、受賞作の下馬評、などがテンポよく盛り込まれていていました。

 実はわたくし、候補作品は「ひっ」しか読んでおりません。しかし作品の要約とそれをどう読んだか、その作家がこれまでどのように書いてきて、それが今回どのように変化しているか、選考委員の顔ぶれの評価、二人の意見がまっ二つに割れた時のそれぞれの主張など、鋭い(そしてキツい)対話を聴くと、文芸作品の読み方の能力を上げて違う世界を見てみたいと思わされました。まあちょっと真面目くさく書いてしまいましたが、豊崎氏の「この作品はエッチな場面もいっぱいあるから(選考委員の)××さんには受けそう」とか、大森氏が最近注目した作品に叔父をモチーフにしているものが多いことから「『叔父さん』アンソロジーが出来たら面白い」という発言など、要所要所で爆笑させられました。やはり何より二人の文学への愛(偏愛も含め)が溢れているところが良いのです。

 という訳で冒頭のアート鑑賞に戻ります。アートに興味のない人や、これから知っていきたい人に美術作品や作家について解説したり、なぜだろう?という疑問を持ってもらうことは大切なことです。しかしアートをアートの世界とどまらせないことを良しとする私は、この対談を芸術作品のギャラリーツアーや鑑賞ガイド、または個人での鑑賞に置換えて考えてみました。目利き二人のメッタ斬りには、批判する、評価するという、知的作業のドライブ感があります。これをアートやミュージアムの世界にも持ち込んだら、アートを通じて批判的にものを見る訓練になると思います。アートの専門家や目利きに、作品や作家をメッタ斬ってもらうのを見るのも面白いし、道場破り?のように個人戦で批評するというのも見てみたいです。私がよく話題にする「好き」か「嫌い」かで作品や作家を見てしまう状況からも一歩踏み出せそうな気がします。

 この対談は、ともすると内輪ノリの文芸談義と取られるかもしれませんが、未知の世界をどう知るか、という体験にとても大きな影響を与えると感じました。二人が選考委員や作家について「センス」という言葉を使っていたのも印象に残っています。アート鑑賞で「センス」と言われたら疎外感を感じるという意見も出るでしょう。しかしセンスは磨いて鍛えることで獲得するものだと私は思います。
 
 二人のメッタ斬りの大胆さと言い切りっぷりは、かなりキビシいですし、斬られる方もかなり痛手を負いそうです。でもこれが光るのは何と言ってもそこに「愛」があるからですね。

podcastで聞くことが出来ます。

2012年7月15日日曜日

復興支援:これからの建築と社会


 震災関連の話題が続きます。今日は建築やデザインを扱う雑誌、AXISの8月号から、アトリエ・ワンが震災後の復興を語ったインタビューについて書きます。アトリエ・ワンは塚本由晴と貝島桃代による建築家のユニットで、このブログでもこれまで何回か取り上げていました。
 
 アトリエ・ワンは、建築を、街や振る舞いといった文脈で語っているところがとても興味深かったので、東日本大震災についてどのようなアクションを取っているのか気になっていました。インタビューでは、牡鹿半島で行なったフィールドワークや復興ビジョンが紹介されています。私が注目したのは、今回の震災以降、これから私たちが生活する社会や環境をどう考えるかについて言及していることです。その語り口は大変落ち着いていて現実的で、希望が持てるものでした。

 例えば今回の震災でさかんに言われた想定外という言葉について。塚本氏は、震災に見舞われた場所を元に戻し、新たに作り上げるという視点から一歩進んで、私たちがこれから都市をどのように捉えていくか、から考え直す必要性について以下のように述べています。「都市に住むことはさまざまな想定に囲まれているのだけど、それを全部知っているわけじゃない。福島の原発が東京のためにつくられていることも知らなかった。要するに都市は想定の塊じゃないか、それならば、個々の設計のなかでも想定の問い直しが起こるべきだと思ったんです。」

 さらに、復興に必要なのは行政と科学技術者から一般の人、という上から下へのやり方ではないと語っています。想定の問い直しに必要なこととして、ある想定のもとに成り立つ工学、想定の内容を決定するヒューマニズムや哲学や歴史、工学分野に関わりつつ想定を疑う建築やデザイン、そして当事者である一般人が混じり合うフォーラム的な場を提案しています。興味深かったのは、震災からの復興に関してもちろん工学や建築が復興に不可欠と思っていたものの、そこに人文系の要素がそこに加わっていることです。人文系の分野が出来ることは、震災を通じて洞察を鋭くしたり、価値を問い直すなどにとどまり、実際的な復興には力が及ばないと思っていたからです。

 貝島氏は、フィールドワークを経たものの、まだ建築に落とし込む段階ではないということに関して「(前略)私たちが設計しなくてもいいと思います。けれども、ある種のハーモニーというか、ビジョンが共有できれば、いきなりここに高層マンションが建つことがないだろう、と。」と言っています。このハーモニーに人文系を含めた複数のジャンルが関わることが出来れば、震災から復興するための知恵に深みが出るということだと思います。一日も早く日常を取り戻すことと同時に、これから続く社会のあり方を問い直し、私たちが震災と共に「ある」ことで現実をより的確に見極めることができると言えるでしょう。
 
 最後に塚本氏は、今回の震災も歴史の中で日本人が何回も経験してきたこと、と語り、貝島氏は、日本がこれ程の震災に見舞われることは想像していなかったけど、だからこそ冷静に普段の眼差しが重要、と語っています。この言葉から伺える視点の深度が、私がアトリエ・ワンを信頼し、これからの活動に期待している理由です。


2012年7月12日木曜日

文化の民主化、あるいは新しいビジネスモデル

 ここ数年購読しているpodcastにEtsyがあります。アート、デザイン、クラフトといったテーマで短いインタビューやレポートなどを紹介しているものです。これは、Etsyという、オンライン上で個人がクラフト、アクセサリーやファションといった作品を公開し、販売できるサイトが配信しています。私も以前このサイトからキャンドルを買ったことがあります。podcastでは注目どころのアーティストや若い作家、小さなアートプロジェクとなどバランスのよく取り上げつつ、質にぶれがないところに魅力を感じています。音楽やカメラワークも凝っていて、無料で配信するにはどのような仕組みがあるのか気になっていました。そして最近、思いがけずこのサイトを紹介した記事をNew York Timesで見つけました。
 
 この記事、"Web Site Illuminate Artists"では、オンライン上でアート作品を投稿してもらい、投票で一番人気のあった作品がタイムズ・スクエアの広告板で展示されるというArtists Wantedというサイトを紹介していました。似たようなものではTwitterで見つけたNONSENSE SOCIETYというサイトがあります。これまでディーラーや美術館に縁を持たなかった作家でもデビューできる新しい場として、注目されているそうです。これは非営利のチャリティではなくビジネスとして成り立っています。Artist Wantedには6万人のユーザーがいて、作品を登録するには25ドルを課しています。さらにこの事業に可能性を見出した企業からも投資を受けており、昨年はまだ利益が上がっていなかったにもかかわらず、130万ドルの資金を得たとのこと。

 Etsyに話を戻します。この記事によると、EtsyもArtists WantedもUnion Square Venturesという投資会社から融資を受けているそうです。(この投資会社はクリエイティブ産業やソーシャルメディア系の企業に多く投資しており、Twitterもその一つに上げられていました。)前記のpodcastもこのように資金を調達する仕組みの中で可能になっていると考えられます。才能を吸い上げる新しいスキームが確立することでクリエイティブ産業の裾野が広がり、ビジネスとしても可能性が見出されている流れが見えます。

 記事では、このようなサイトを創設した人たちが、金儲けだけでなく、「文化の民主化」に関心を寄せていることを伝えています。しかし多くの隠れた才能にチャンスが開かれるということは、同時に見る側にもよいものを見極める眼が問われることになると思います。権威主義ではないですが、多数がよいと思うものが常に質が高いとも限らないというのが私の見方です。Etsyを見ても、(私のセンスから見て、ですが)「これを売り物にするのか?!」というレベルのものがあります。プロとアマチュアの境目をどのように定義づけるかという疑問が沸き上がる、とも記事では指摘されています。

 Etsyが設立されたのは7年前、Artist Wantedは4年前と実績は短く、アート業界ではまだ始まったばかりのモデルといえます。が、ある美術館の学芸員は、このような作家はまだ主流にはなっていないものの、注目する必要があると語っています。アーティストにとって作品を公開する機会が増え、希望の持てる仕組みに見えます。しかしリーマンショックやヨーロッパの金融不安などを見る限り、投資の対象になることで抱えるデメリットにも注視する必要があります。いささか及び腰の発言になってしまいました。とはいえまだ始まったばかりの試み、これからこれらの取り組みがどのように変化していくか、注目していきたいと思います。

New York Times "Web Site Illuminate Artists" (2012/6/17)

2012年6月29日金曜日

災いの後に表現する

(English follows after Japanese) 

 東日本大震災と芸術については昨年9月にも書きましたが(「現在を生きて未来を作り上げる」をご参照下さい)、その後も折りに触れて違和感を感じる場面がありました。芸術家が震災に過剰反応しているように見えること、例えば無理やり震災(特に原発事故)を作品に取り込もうとしているように見えること、アートと震災の関係を何とか言葉にしようとしているように見えること、誤解を恐れずに言うならその浮ついた感じが気になっていました。(多分そうではない人たちも多くいると思います。)東北で被災した訳でも、現地を見た訳でもないので、現実を分かっていないと言われるかもしれません。しかし、それがよい、悪いというのはなく、何故このような高揚感が沸き起こっているのかを知りたいと思っていました。
 
 このもやもやが浮き沈みしていたところ、文芸誌の「新潮」のバックナンバーを読んでいて興味深い記事を見つけました。作家の古井由吉氏とお笑い芸人の又吉直樹氏の『災いの後に笑う』という対談です。古井氏の小説を読んだことも、又吉氏のネタも見たことがないのですが、私の疑問や違和感に一つの答えを与えてくれました。
 
 震災の後、人を笑わせてよいのか悪いのか、と考えたことについて2人が語っている部分があります。古井氏は「災害の後はね、どうもこれ古今東西のことらしいんだけど、人の心は躁鬱の振れ幅が大きくなるそうです。空襲で焼け野原になった直後も、人が浮かれていることがありました。で、はしゃいだと思うと、急に沈み込んだりして。」これに対して又吉氏はこのような体験を語ります。「七月に宮城県に行って、現地の人たちの前でやる機会があったんですけど、そのときのお客さんのテンションの高さといったら、すごかったです。(中略)当事者の人たちは活力を何かに見出そうとしているんだけど、現地以外の人たちは、もちろん悪意はなく、現地の人を慮った上で、そういうのはよくないんじゃないかという判断になって、大多数の人の意見が取り入れられて規制されるので、ブームにならないんでしょうね。」。この後も破壊的な状況での人々の振る舞いについて話しているのですが、今後漫才や文芸がどうなるかという話題になり、これから先、世界に対する自分がどうなるか分からないものだが、その世界だってどうなっているか分からないと締められています。

 終戦と震災は状況が違いますが、古井氏が言う躁鬱の触れ幅と又吉氏が体験したテンションの高さ、というのは私にとって理にかなった説明でした。私にはこの状況が芸術や表現の世界にも見えました。震災の衝撃は段階的に受け入れられていくものではなく、行ったり来たりしながら現実感覚が取り戻されると言えるかもしれません。昨年7月のブログでは「創作や表現活動を今まで通りに続けていくことに、大きな意味があるはず」と書きました。それは今も感じています。それに加えて震災とアートの触れ幅がどう変わっていくかを冷静に注目することも、今後何十年経った時に意味のある行いだと思います。

「新潮」2012年1月号『災いの後に笑う』古井由吉+又吉直樹

Representation after disaster
I have written about the natural disaster such as earthquake and tsunami in last March and how art changed after that. ( Refer to "Living the present, creating the future".) Since I had written that, I have often felt awkward that how arts, artist, art expression, or art critics in Japan lose their composure. I found they overreact to earthquake, tsunami or accident of nuclear plants. For example, they seem to apply their theme of artworks with disaster ( nuclear matters, particular.), or they seem to find any words to describe the connection between arts and disaster. I dare to say they look flippant (There should be many artists who are not.). It is not the issue of what is right or wrong. I was just curious why they seemed to be in spree.
While I have been wondering what makes it happen, I have found an interesting article in the literature magazine called Shincho. It was a conversation between a novelist, Yoshikichi Furui and a comedian, Naoki Matayoshi. Their words gave me one of the answers. I haven't either read Mr. Furui's novels nor watched Mr. Matayoshi's stage be honest.
They talked that it if possible to make people laugh in the situation of agony, in that disaster. Mr. Furui quoted that in the era right after World War two in Japan. He said he had witnessed people swung like manic-depressive at that time. He mentioned that it could happen not only post war in Japan, but also other countries. Then Mr. Matayoshi talked about his experience on stage in Miyagi where the damage was serious. He said that he unexpectedly saw people being high-spirited to watch comedy. The two continued to talk about how we have been reacted to that disaster. They ended the conversation that we could not tell what literature or a comedy would be like in the future. Adding to this, they mentioned we can not predict ourselves and even how the world around us would change.
The manic-depressive swing Mr. Furui said, and the response of the audience Mr. Matayoshi experienced explain the awkwardness I have felt. Even the situation between post war era and that disaster was not the same, I have found this is similar to the situation in art. The trauma we have gone through in that disaster does not seem to recover step by step. We must swing from state of manic to repressiveness in order to regain our reality. In the blog post in last September I wrote as below: "in terms of art, there should be lots of meaning to continue creating and expressing as same as we have before embracing dilemma. ". I still believe the same. Adding to it, I would say it should be meaningful to pay attention to this swing in art and representation. When later generation look it again, we will find any answer.

2012年6月18日月曜日

写真のリアルな世界

(English follows after Japanese.) 

 先日、清里フォトアートミュージアムへ「2011年度ヤング・ポートフォリオ」を観に行きました。若い写真家の作品を支援するため、美術館の所蔵作品として購入された作品の展覧会で、今年が17回目になります。応募は31カ国からあり、今回は26名による178枚が所蔵されました。

 思い返してみると、今まで興味ある作家、好きな作家の写真展を観に行くことが多かったので、「若い写真家」という括りで複数の作家の作品を一度に見ることは私にとって珍しいことでした。そして26人もの作家の思いが込められた作品を見ていくのは、とても体力が要ることが分かりました。なぜ体力が必要だったのかを考えてみた時、劇作家の平田オリザ氏の『演劇入門』という本を思い出し、読み返してみました。この本は戯曲を書くために必要な技術と、演劇で私たちにリアルに見せているものは何かという問いの両方に触れています。私が展覧会を見て思い出したのは後者で平田氏が語っているリアルとは何かという点です。

 私がこの展覧会で最も力を使ったのは、それぞれの作家が見た/見せたい世界に毎回ピントを合わせることでした。何が作家にとってリアルな世界なのかを見極める作業とも言えます。平田氏は前出の本で「なぜ人は、他者の演技に、『リアル』な感覚を持つことができるのか。なぜ、人は、他者が書いた台詞を『リアル』と感じるのか。そしてそのような『リアル』に支えられて成立している演劇という表現ジャンルの特徴とは何なのか?」(p.25)と書いています。ここで言われている「演技」「台詞」「演劇」は写真にも置換えられると感じました。これはおそらく芸術表現の多くに当てはまることだと思いますが、写真や演劇は私たちの見ている世界をよりダイレクトに反映する要素があるので、そう感じたのかもしれません。

 作品の中で特に引っかかったのが、児童買春やパキスタンの女性虐待、東日本大震災など社会的な主題を取り上げた作品でした。もともとこれまでそのような写真を観てこなかったというのもありますが、現実の問題を展覧会で見せるという作品に私はあまりリアルさを感じられませんでした。これは例えば悲惨すぎてリアルと思えないというものではなく、「私にとって」リアルではないということだと思います。反対に人工的に加工されたり、細かくセッティングされたものの方に私の心象風景と照らしてリアルだと感じることがあります。

 再び平田氏の言葉を引用します。「『リアル』は人それぞれだと漠然と言い放つのは、たやすい。だが、それでもより普遍に近い『リアル』はあるのだ。少なくとも多くの人がAよりBをリアルと感じる。その差異は明確にできるはずなのだ。私がいま見極めたいと思うのは、その差異である。」(p.24)私が逡巡しているのもその差異にあると思います。中盤で平田氏はその差異をコンテクストのずれ、と表現しています。文化や言語だけでなく、個人の言葉や仕草にもコンテクストのずれがあるというのが平田氏が注目している点です。私はそこに加えて、個人の見方や視線の向けどころにもコンテクストのずれがあると感じました。現実を描写した写真にリアルさを感じない私のコンテクストが、そこにあると言えます。

 平田氏は最後に「おそらく、演劇において、特に優れた演劇作品においては、表現者と鑑賞者の間で『内的対話』とでも呼ぶべき特殊な対話行為が行なわれているのではないだろうか。(中略)千人の観客がいれば、表現者に対して千組のコンテクストの共有が行なわれていることが望ましいのだ。そのためには千とおりの『内的会話』が保証されていなければならない。」(pp.190-191)と書いています。私は、この内的会話にずれがあるままの、突き放された感覚もまた、作品の価値の一つだと感じます。これは私たちは見たいものだけ見ればよい、という諦めではありません。共有できないリアルな世界を共有する、という前向きな姿勢を持つのが真摯なあり方だと思うからです。この展覧会から、写真、演劇、リアル、という不思議な数珠つなぎが続きました。長い一日をここで終わりにします。

清里フォトアートミュージアム(2011年度ヤング・ポートフォリオ展は6/24まで) 
平田オリザ『演劇入門』講談社現代新書(1998)


What is real in photography?
I have been to see "Young Portfolio Acquisition 2011" at Kiyosato Museum of Photographic Art. This museum buys photography by young artists to support them as museum collection. This year marks 17th exhibition. The applicants were from 31 countries, and 178 works by 26 artists were bought as museum acquisition.
Back in my memory, I have not been to a photography exhibition by "young artists", since I have always chosen the exhibitions by my favourite photographers. This time, I found it asks me to have extra energy to see every work by passionate 26 artists. As I wonder why this happens, I recalled a book called "Engeki nyuumon (The introduction of drama)" by one of the Japanese playwrights, Oriza Hirata so I reread it. Mr. Hirata writes two things that the technique of writing drama, and a question what makes us feel real in a drama. What I recalled in my mind was the latter issue, what makes me real in a drama.
What exhausted the most was to focus on the world that each artist wants to show or what the artist sees through a camera. It is a process to track what is real to the artist. Mr. Hirata asks on the book that why we can feel real when we see actors playing on stage. Why we feel the lines written by a playwright "real"? What makes drama distinctive from other art expression based on what we feel "real"? I felt "actors", "lines", and "drama" could replace to photography. It might be because photography and drama reflect our world more directly comparing to other artistic expressions.
The works that I felt awkward were of the themes such as child prostitution, abuse for women in Bangladesh, and the natural disaster on 3.11 in Japan. I can not tell it was because I have not seen those types of photography in museums; however, I did not feel real to see the photography of contemporary social issues in a museum. It does not mean that it seems not real as it was too tragic to believe. It does not seem real to me. For example, what I felt real at the exhibition were works such as using artificial and intentional techniques.
From the words by Mr. Hirata again. He writes that it is easy to state that each person has each sense of reality. But still, there will be nearly impartial reality that we can share at a point. He points out there will be ways to recognise the gap between the reality for a person A and B. And what he aims is to describe this gap. In the middle of the book, he decipher this gap is the gap of context. Not only culture and languages, Mr. Hirata says personal way of speech or behaviours causes the gaps of context. Adding to this, I would say the way of seeing or viewpoint has the gaps of contexts. I understand there was a gap of context between those artists I mentioned before and me.
In the end of the book, Mr. Hirata said that in drama, especially impressive drama, actors and audience have notable communication, in other words, internal conversation. If there are thousand of the audience, there should be thousand types to share each context. To realise this, we should undertake thousand of internal conversations. But for me, it does not always have to share contexts with others. The feeling of being ignored or solitude is also the value of artworks. I am not saying that we can only see what we want to see and does not care about other's reality. What I want to share is the awareness that there is "real" feeling that we can never understand each other. It is more true for me and also this would be honest attitude toward any expression of arts. This is a long process to conclude what makes me think real in photography. It was a long path!

2012年6月12日火曜日

デザインと人が交わる場

 ドイツの芸術系出版社、GestaltenがGestalten TVというpodcastを配信しています。(因に、バックに流れている音楽がいつもかっこいいのも特徴。)今日はその中で紹介された、クーパー・ヒューイット国立デザイン博物館館長のBill Moggridgeのインタビューについて書きたいと思います。この博物館はスミソニアン博物館の一組織で、豊富なコレクションからはデザイン史、装飾史、ファッション史などを辿ることができます。
 
 Moggridge氏はデザイン会社IDEOの創始者であり、初めてラップトップコンピュータを開発した人物として知られています。ところでIDEO本社はシリコンバレーのパロアルトという街にあります。今年2月にその街を訪れたのですが、私はどこが本社かなときょろきょろしながら歩いてミーハー振りを発揮しました。

 IDEOはこれぐらいにして、インタビューに話を戻します。私が面白かったのが、Moggridge氏がサービスをデザインすることについて語ったことです。これまで私たちは何か新しいことを伝え教える時、人を訓練してきました。例えば昔の電話は、公衆電話機で交換手呼び、交換手が相手を呼ぶ、という人対人のやり取りで行なわれていました。そこにはデザインの問題はありません。上手く機能しなければ人を訓練すればいいのです。しかし現代の私たちは、携帯電話で別の携帯電話を呼び、さらにそこから別のデバイスにも繋ぐ、機械対機械というプロセスがあります。人から機械、機械から機械のやり取りを上手く行なうためにデザインが必要になります。サービスに関わる課題は「デザインのチャレンジ」であり、「デザインの機会」と彼は語っています。

 インタビューの中で彼が、人が何かを始め、異なる背景を持つ人たちとコラボレーションを行なう時、space=場が重要である語ったことはとても示唆的です。歴史資料を保存し、解釈、展示するという場、そしてデザインのチャレンジ、機会について思考を広げる場。Moggridge氏の言葉からは、ここで人とモノと解決のプロセスが交わる場の実現を目指してると感じました。博物館は職場や学校のように、直接誰かと恊働する機会は少ないでしょう。しかし間接的にデザインが解決しようとする、また解決してきた問題を共に考えることがこの博物館のあり方だと思います。長らくデザインの現場に携わってきた人だからこそ自信を持って語れる世界に見えました。


2012年5月31日木曜日

TED東京オーディション:プレゼンテーションのアート


(English follows after Japanese)

 一昨日、TEDxTokyoのオーディションを観に行きました。数日前、最後の観覧募集がtwitterで流れてきたので、気合いを入れて応募したところ当選したものです。初めての東京オーディションで選ばれた登壇者は、来年ロングビーチで行なわれるTEDに参加するチャンスが得られます。
 
 今日はいつものアートやミュージアムの話題からは少し離れますが、プレゼンテーションのアート(技術)ということで取り上げたいと思います。
 
 集まった登壇者は20名程で、分野は経済、科学、コンサルティング、アート、パフォーマンスなどでした。それぞれ英語で5分のプレゼンテーションを行ないます。日本人ばかりかと思っていましたが、日本人と日本以外の国出身者が半分ずつぐらいでした。
 内容やトピックはさることながら、今回はプレゼンテーションの妙を学ぶことができました。例えば語りの間。観客が聞いているかを確認すると同時に、観客も話し手のリズムを掴むことが出来ます。この間に拍手や「ひゅーひゅー!」というかけ声も入るのですが、それは英語圏のリズムっぽくて私は乗り切れず戸惑いました。そしてもう一つは締めの一言。これが上手く決まっているかどうかで、後々記憶に残るかの分かれ目になりました。例えば、フリーダイバーの二木あい氏は、一般の人たちが知り得ないダイバーの身体感覚や海中での経験を話しました。ここまではなるほど、そんな世界もあるんだ、というところで終わってしまいますが、彼女はその体験を私たち一般の人たちに引きつけて「例えばシャワーや、手を洗う時、顔を洗う時、生活の中で水を感じ、私が体験したように自然を感じて欲しい。」と締めくくりました。未知の世界から普段の生活にぎゅっとクローズアップされたスピーチでした。
 
 オーディションは司会進行からプレゼンテーションまで全て英語でしたので、この間合いや雰囲気は英語圏特有の「何か」なのかな、というところもありました。日本語でそのまま話すと納得するだろうと思えるものでも、英語になると何となくもやっと聞こえてしまうものがあったり。今回は英語でしたが、母国語でない言語でプレゼンテーションをする時、なるべくネイティブに近い話法がいいのか、それぞれの国民性のようなものを活かした方がいいのか、なども考えさせられます。その違いや諸々を含めて今回の東京オーディションは刺激的な体験でした。


TEDxTokyo audition: The art of presentation
I got an invitation to the audition by TEDxTokyo. I found the announcement on twitter a few days before so it was no doubt to apply limited seats.
The winners in this audition will have a chance to be on the stage at TED in California in 2013.
Usually, I write about art and museums in this blog, but today, I will focus on the art (=technique) of presentation inspired from the audition.
There were twenty speakers on that night. They talked or performed from a variety of fields such as economy, science, consulting, art or performance. Even I thought there were only Japanese; however, the half of them were non-Japanese.
Apart from various content of selected presentations, what I learned was there being the art of presentation. One thing is appropriate poses between speech. They make audience follow the rysnm and groove of presentation. The audience in the venue cheered them with clap hands and yell among poses. To be honest, for me, I felt a little bit uncomfortable in this atmosphere. It was not familiar for me who was brought up in Japan. The other point is the words that bring together to complete the presentation. When you prepare good words to conclude your presentation, you could leave a vivid impression. The example is one of the speakers Ai Futaki. She talked about her experience as a deep diver. She invited us to the world what she saw and felt deep in the water. Her unique experience brings us to the marvellous place where we never know. If it ends here, it is just a story too far from our everyday life. Futaki concluded her speech as follows, "For example, when you take shower, wash your hands or face, feel nature through water as I do." at the end of speech. When I heard these words, I felt that unknown world in deep sea became close to my life.
Since this programme was all in English, the atmosphere seemed to be something of English-speaking culture. In some presentations by Japanese, I felt awkward to listen to it in English as I am a native Japanese. This made me think following questions. Should Japanese try to speak totally as same as native English speakers? Would it be better to emphasis our culture behind our mother tongues? The presentations were eye-opening, and some of them were even mind-blowing. TEDxTokyo audition gave me not only chance to see things from different viewpoints, but also made me rethink the art of speech in foreign languages.