『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』という本を読みました。大英博物館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、シカゴ美術館、J・ポール・ゲティ美術館、MoMA、メトロポリタン美術館といった欧米の主要美術館館長、館長経験者が行ったシンポジウムをまとめたものです。「市民の信託」というサブタイトルに惹かれて手に取ったのですが、原題では「Public Trust」と表現しています。英語「Public」と日本語の「市民」という言葉の背景にある重みというか意味合いに違いがあるのではないかと感じましたが、今回は各氏の議論に焦点を当ててみたいと思います。
それぞれの議論はやや美術至上主義的な、美術史界のエリート大集合といった雰囲気も感じられましたが、現場を厳しく見てきた経験によるとても示唆に富んだものでした。私が普段何気なくしかし同時にもやもやとした違和感も持っていた「美術館は誰のものか」という疑問について言葉を与えてくれる本でした。
特にNYのメトロポリタン美術館館長、フィリップ・デ・モンテベッロ氏の講演はとても私の心に響きました。彼は前半で、美術館が市民の信託を得るために真の学究の証である純粋さ、謙虚さを示す「威信」、そして政治的意図や市場原理で歪められることのない「オーセンシティ(真正さ、本物であること)」が必要であると語っています。これらのキーワードに基づき、現在の美術館が置かれている状況をこう語っています。美術館は規模が大きくなるにつれ運営が困難になり、資金を確保するというプレッシャーのために美術館の方針を本来的な使命ではなく、市場原理に委ねている。さらに来館者が美術館の新たな焦点となり、過剰なまでの催事と展覧会が行われている。ここで彼は、美術館が来館者に焦点を置くことで奇妙なパラドックスが生まれる、と指摘しています。「芸術作品ではなく来館者を中心に据えると、来館者がよりよい奉仕を受けることにはならず、(中略)美術館が来館者の興味を引きつけ、喜ばせようとすると、必然的におもねる姿勢が生まれるでしょう。つまり、来館者の数が重要なのであれば、その質が問われることはないのです。(中略)あらかじめ集客を見込める展覧会を際限なく繰り返すならば、人々の視野が十分に広がることはありません。そうなれば、人々は美術館に対して、より多くを求めようとはしなくなるでしょう。」(pp.214-217)
これはなかなか強烈な批判です。まさに私がうっすらと嫌悪感を抱くメガ展覧会の一面を表していると思いました。来館者が沢山入ることによって成功が量られ、その内実、展示室の中は込み合うばかりで落ち着いて鑑賞することが出来ない、という展覧会を私たちは少なからず体験しています。センセーショナルで派手な展覧会に対する苛立ちや物足りなさは、来館者に対するどこか不誠実な振る舞いによるものだと私は感じていました。デ・モンテベッロ氏はメトロポリタン美術館館長という経験から、集客をねらった企画と、真剣な目的を持って行われた展覧会の違いを市民は十分承知している、と力説しています。これは市民の反応に過敏になれ、ということではなく、美術館が市民に迎合していないという意識、信頼に基づいた評価を市民から得られるかどうかが問題だと言っています。私たちは、メガ展覧会に偏重することで彼らが言うところの市民と美術館との信頼関係を、信じようとしてこなかったと言えるのではないでしょうか。
他の6人の議論も切り口は違うものの、美術館が市民に対して果たすべき責任、つまり娯楽産業と競合して安易な楽しみを提供するのではなく、理解に時間はかかっても美術と向き合うことには価値がある、ということを伝えるべきという主張をしており、とても勇気づけられる一冊でした。さて、私にとって次の課題は日本の中での「市民=public」とは何か、について掘り下げて考えることになりそうです。
『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』
編:ジェイムズ・クノー
出版社:ブリュッケ