2008年5月25日日曜日

懐かしい音

 夕食を終え、小さい音でラジオをかけながらメールを書いたりしていたところ、聞き覚えのある音が聞こえてきたので、咄嗟にボリュームを上げました。それはTENORI-ONというヤマハが発表した楽器を紹介している番組でした。新製品なのに知っている、この音!と思い耳を澄まして聞くと、TENORI-ONはアーティストの岩井俊雄とヤマハのコラボレーションによってできた楽器とのことでした。この既視感、ではなく、既聴感はなんだ?と思いめぐらしてみましたら、2001年、私は原宿のラフォーレミュージアムで開催された「岩井俊雄テクノロジープレイグランド2001 PHOTON~光の音楽」という展覧会で、確かこのTENORI-ONの小さい版(ワンダースワン版だったか?)に触ったことがあるのです。

 アート作品を音で思い出す、という体験が私はとても不思議に思えました。例えば、ある作家の同じ作品を別の展覧会で見かける、とか、図録で見つける、というのと違い、「前に体験したのと同じではないけど、何故か知っている。」というじんわりした記憶が、懐かしく、心地よく甦ったからです。このように曖昧な輪郭を保ったまま私の中に記憶され、そして思い出されるという長い時間の流れそのものが、私にとってこの作品を鑑賞する、という体験だったのかもしれないと思いました。随分と時間がかかって、気持ちのよい場所にたどり着いたような夜でした。

TENORI-ON|ヤマハ株式会社 ウェブサイト

2008年5月7日水曜日

全てのアートはキネティック

 森美術館で行われている企画展、「英国現代美術の現在史:ターナー賞の歩み展」のアーティストトークを聞く機会がありました。ターナー賞は、イギリスの秋の風物詩とも言える現代美術賞で、テレビ局がスポンサーになっていることから、毎年報道も大々的になっています。この企画展では、20年以上に渡る賞の受賞作品が集められています。私の好きな、レイチェル・ホワイトリードの作品も来ていました。

 さて、アーティストトークでは、ホワイトリードともう1人、マーティン・クリードが自分の作品について語りました。彼の作品は『ライトが付いたり消えたり』というタイトルで、文字通り展示室の照明が何秒かごとに付いたり消えたりするだけのものです。初めその展示室に入ったとき「もしかして、ここは照明の調整中?」と思ったのですが、ライトが付いたり消えたりするそのものが作品なのでした。作家はコンセプチュアルで小難しい感じの人なのかしらと思ったのですが、クリード本人はあまり人前で話し慣れてないような訥々とした話し方の人でした。うなり声(?)で構成された『ウー』という音楽作品や、女の人が嘔吐している映像作品(なぜ男性ではなく、女性がモデルかというと彼曰く、女の人の方が上手に吐くからなんだそうです!)などを紹介していました。

 このあたりで、この作家はやっぱり私向きではないかも・・・と思い始めました。しかし、作品のコンセプトについて話している中で、私は息を飲みました。彼は「全てのアート作品はキネティック(動的な、運動する)だ。モノは周囲の環境と切り離せないし、見る人は、いつも動きながらモノを見ている。アートを見る体験は、いつも動きの中に起こる演劇的なもの。」というようなことを語ったのです。これは、修論の時に私が考えていたことと通じるものがある!と感じました。

 修論のプランを練る時、「美術館体験」とは作品を見ることだけなのか?例えば美術館という場の文脈から離れて置かれたら、それはもう美術館体験とは言えないんじゃないかな、と考えたのが初めのアイディアでした。そこから、美術館体験とは作品を見るというのでなく、作品がある「場」の体験である、という考え方を中心に論文を書きました。卒業した後もこのテーマが私の中では静かに熟成を待っており、機会があればもっと深く取り組みたいと思ってきました。だからクリードの話を聞いた時、「全てのアート作品はキネティック、動きの中で作品を見る」という言葉にはっとさせられたのだと思います。彼の話を聞いて、展示され、人々に体験されるという行為そのものを、彼は作品の中に閉じ込めているように私は感じました。図録の写真や記録された映像を見るのではなく、その場で、その空間で作品を見る、ということの意味について改めて考えてみたいと感じました。

 ところでもうひとつ気になるのは、この作品をもし買ったとしたらどんな形で納品されるのか、ということです。



 生きている記憶

 なんと不思議な展覧会でしょう!先月29日からイギリスのReg Vardy Galleryで始まった”If There Ever Was”は「匂い」を鑑賞する企画展だそうです。英語では博物館資料を“museum objects"、と表現しますが、まさにobject=モノでない「もの」の展覧会とは、博物館の存在そのものが危うく思えてしまうほど衝撃的です。同時にこの展覧会を企画したキュレーターの目のつけどころに賞賛を贈りたい気持ちにもなりました。美術館のサイトでダウンロードできるリストによると、この展覧会では、絶滅した花の匂いや、太陽の表面の匂い、クレオパトラの髪の匂いなど、この世にあり得ない匂いを展示しているそうです。中には、共産主義の匂い、ヒロシマの匂いなどもあります。

 目に見えないもの、手に触れないもの、聞こえないものを展示すると、どういった展示空間になるのでしょうか。写真を探してみるとReg Vary Galleryの展覧会サイトでそれらを発見しました。展示ケースやスクリーンといった展覧会で見慣れているものが全くない空間の壁面に、展示解説パネルのようなものがあるようです。そこに顔を近づけている様子からこのパネルのどこかから匂いを感じることができるのでしょう。匂いが混じり合って、展示空間に入ったとたんミックスされた匂いに打ちのめされることはないのでしょうか。気になります。

またとても私を引きつけたのが、この展覧会があくまでも美術館の企画展であり、匂いを嗅覚と結びつけて自然科学的な視点でとらえている訳ではないという点です。UKの展覧会情報サイト24 Hours Museumではこの展覧会について、「匂いは、学校の給食や子供時代の海辺の休暇といった思い出と、しばしば結びついているものである。しかしこの展示では、記憶に全くない匂いを体験することができる。」と紹介しています。確かに自分自身について考えてみても、外国の街の匂い、例えば、ハッカクの匂いで友人と行った台湾、葉巻タバコのような匂いで大学時代にひとりで行ったパリ、などを思い出すことがあります。視覚や触覚、聴覚に比べて、嗅覚は言葉にし難い場の空気感や集団で共有した記憶のようなものを思い出させてくれるような気がします。この展示室で記憶にない匂いを誰かと共有することで、新たな記憶が生み出されるのかもしれません。手に触れたり、どこかにしまっておくこともできない、脆いなにかを捉えようとするこの展覧会は、私たちが生きているということや、自分と他者とのつながりすらも実感させてくれる強い力がありそうな気がします。