2015年12月31日木曜日

秋のくらもと古本市探訪

 少し前、11月18日になりますが、上諏訪のくらもと古本市に行ってきました。五つの酒蔵、真澄、横笛、舞姫、麗人、本金が会場で、私にとって秋と冬の恒例行事になっています。















 今回はトークイベント「なんでみんな、本に熱くなるの?」を聞くのも目的のひとつでした。クルミドコーヒー店主でクルミド出版発行人の影山知明さん、そしてクルミド出版から小説『りんどう珈琲』を発表したOZmagagine編集長の古川誠さんがゲストです。舞姫の二階で、お二人の出会いから、本ができるまで、クルミドコーヒができるまでのお話を聞きました。



 「インスタントコーヒーはコーヒー豆をくだいたものだと思っていた」という影山さんの著書『ゆっくり、いそげ 〜カフェからはじめる人を手段化しない経済〜』もご紹介されました。これにはクルミドコーヒーというカフェができるまで、そしてお客さんや従業員、地域の人を大事にしながら続けていくための思いが書かれています。「資本主義、乗り遅れた者は負け」でも「お金がなくても気楽に生きていこうよ」でもない、周りの人を大事にして幸せになれる経済ってどういうものだろう?という視点に励ましを感じました。


 というわけでトーク終了後、影山さんが二冊だけ持ってきた一冊を、私がゲットしてサインも頂戴しました。またも日本酒を買いそびれ、古本もグッと来るものがなかったのですが、最後にいい出会いがありました。





2015年10月30日金曜日

誰かの眼を借りて

  9月6日「観ると撮る〜美術館体験の拡張」というタイトルで、来館者が美術館で写真を撮る風景について書きました。MoMA、ルーブル美術館などでは来館者がなし崩し的に写真を撮るようになり…と書いた写真雑誌の記事にも触れましたが、私は新しい鑑賞のかたちだと感じており、こうした流れにはポジティブです。

  そうしたところ、アート情報サイト、Art Annual online(アートアニュアルオンライン)で美術館がインスタグラムのアカウントを作って来館者の写真をシェアしているというニュースを見つけました。私は苦々しいニュアンスの意見を紹介しましたが、すでになし崩しではないではないか!積極的に使っているではないか!と拍子抜けしました。ルーブルの他にはMoMA、TATE、メトロポリタン美術館、大英博物館などがアカウントを作ってPRや来館者と美術館とのコミュニケーションなどに利用しているそうです。日本では山種美術館、森美術館、ポーラ美術館がアカウントを開設しています。

  ルーブルのアカウントは、今日現在で投稿が445件あり、なんとフォロワーは29万人を超えています。子どもがケースにかぶりついて彫刻を見つめている写真や、展示替え?で職員が石像を動かしている写真には臨場感があります。夕闇に光るガラスのピラミッドや敷地内の紅葉を撮った写真には場所の空気を感じます。画集や公式サイトは「こう観てほしい、一番いい状態を観てほしい」という意図の写真が使われますが、インスタグラムは来館者の視点で切り取られていて、お土産話を聞いているようです。

  私が美術館教育や鑑賞教育などに関わったり学んだりしていた15年〜10年前は、レプリカやモチーフの教材キットや、バンに作品やハンズオン教材を乗せた移動美術館などで実際に行かなくても学びを深められる手法をよく見かけました。まあ、それはそれで作品に触れる体験ではあるのですが、モノだけに頼っているところに美術館体験として物足りない部分がありました。       

  もちろん、インスタグラムだって実物ではないし、場を体感するわけではないけれど、「この人はこれに注目して写真を撮ったんだ」「この風景に心奪われたのか」と思いを馳せられるのは、会ったことのない誰かの眼を借りた親密な美術館体験です。作品そのもの、美術館そのものではないのに、手触りがあります。単純に素朴に、技術の進歩はすごいなあと関心するとともに、美術館での人との関わり方、体験や思いを共有するあり方に変化の可能性を感じています。















2015年10月3日土曜日

私たちのリベラルアーツ

 6月に政府が出した、国立大学の人文科学社会科学系学部の縮小あるいは閉鎖を求めた通知が波紋を呼びました。国立大学は「社会的ニーズに応える分野を担う」のが理由だそうです。人文科学をないがしろにすれば、単に生きることはできてもよりよく生きることはできない、とか、一見役に立たないものから創造的なものが生まれることを忘れるなかれ、など憤りの声がアカデミックの分野や文筆家から噴出するのも散見しました。


 一部のメディアによる誤解だと文科省は釈明していますが、海外からもこの動きを危惧する声が上がっていたので紹介します。The Diplomatというオンラインマガジンに、テキサス大学オースティン校のJohn W. Traphagan教授が寄稿したものです。The Diplomatはアジア太平洋の政治や社会、文化などを取り扱っています。Traphagan教授は、文科省の思惑に対して、日本はリベラルアーツを否定しているのにポップカルチャーを世界に輸出しようとしている、と痛い矛盾を突いています。


   欧米からの批判に弱いのは日本人にありがちで、日本文化の例としてハヤオ・ミヤザキという印籠を出されるのも食傷ぎみですが、彼があげる二つのキーワードは核心を突いていました。


  なぜ社会科学や人文科学が必要なのか、彼は、interpret our world(私たちの世界を解釈する)、work with others(他者と協働する)の二つを実現するためだと書いています。この二つは社会的ニーズというどこかからの要請ではなく、「私たち」が解釈する、「私たちが」協働するといった、個人がどうあるかという視点です。主体は私たちです。


個人と社会的ニーズの関係について考えていたとき、ずいぶん前にラジオで聞いた経営者のインタビュー番組のことを思い出しました。うろ覚えなのですが、アウトドア用品会社の経営者がゲストで、MCが「お客様のニーズに応えるためにどんな工夫をしていますか」と聞いたところ「(外からのニーズというより)社員が登山などで使ってみて必要だと思ったものを開発しています」というニュアンスのことを言っていました。MCは引き下がらずお客様の…と繰り返し、聞かれた方も戸惑っていて、噛み合ってなくない?とつっこみを入れたくなりました。ニーズの設定が入口ではなく、個人一人ひとりが積み上げた知見や分析によって商品を具体化していということは、この会社には無駄足かもしれないことや取りまく環境を理解することに時間をかける文化があるのではないかと感じました。


 ビジネスの話なので社会学、芸術、文学、倫理学といった学問と直接つなげるのは荒っぽいですが、Traphagan教授の「よい働き手とは、創造的思考ができ、人間との関わりの中でコンテキストを理解し、道義にかなう行動をする」という言葉にも通じると思います。


  ちなみに前出のブランドの寝袋、私も持ってます。


 

2015年9月6日日曜日

観ると撮る 〜美術館体験の拡張〜 

 スマートフォンを高々とあげてモナ・リザを撮る来館者たちを後ろから撮影した写真が、ameicanPHOTOという写真情報サイトのコラムに載っていました。なんというか、美術館で写真を撮るイケてない人たちの図っぽい。


 しかし2010年あたりから、MoMAを始めとしてニューヨークの美術館では、来館者の撮影を許可する流れになってきたようです。コラムの冒頭は批判的で、写真家は作品へのダメージや著作権など多くの課題と妥協しながら撮影してきたのに、美術館はなし崩しで撮影を許可し始めている、という論調でした。


 先月森美術館で観た「シンプルなかたち」展でも、来館者が作品を撮影する光景に遭遇ました。
 
 通常の展覧会では珍しいことですが、森美術館の企画展は、営利目的で使わないことを条件に撮影可能な作品がいくつかあります。今回は3点のインスタレーション作品が撮影できました。ただ、美術館側が撮影可能な作品をコントロールしているので、なし崩し的な例とは同じではないことは前提です。


 友人から聞いてはいたものの、静かに鑑賞している人たちが特定の展示室で写真を撮りはじめるというのは意表をつきました。オラファー・エリアソンの展示室では、「ほらほら、そこに立ってて」と不機嫌な息子にiPhoneを向けているお父さんに名所旧跡感があったり。邪魔してスンマセン、と恐縮しつつ展示室に入って罵声を浴びる…ことはなかったです。


 と書くと、作品もロクに観ないで写真を撮るなんて、ケッ、無粋な!と鼻息荒くなってる人だと思われそうですが、私は美術館の新しい風景だと感じました。コラムでは、「写真を撮ることで美術館の体験を記憶するのではなく、(写真の)イメージによって美術館を体験しているのだ」という意見も取り上げています。写真は記録媒体ではなく、体験の仲立ちするものに変化していると言い換えられるかな?森美術館も、写真を撮るという選択肢を鑑賞の一環に加わえて、SNSで共有するところまで想定して鑑賞に広がりを持たせているともいえそう。


 実をいうと、私はゲキ重い一眼レフを持っていってモタモタしただけでした。これこそ無粋でありますね。


2015年9月2日水曜日

一般国民の私とオリンピックエンブレム問題

 東京オリンピック・パラリンピックの組織委員会がエンブレムがを白紙撤回しました。このまま行くんじゃない?という展開を予想していたのでびっくりというか、でもやっぱり、というか。

 1日の大会組織委員会の会見によると、エンブレムに関してはデザイナーは模倣していない、しかし一般国民の理解が得られないというのが理由だそうですが、いまひとつ撤回の決定打が分かりませんでした。法的には問題ないし独自性があるとしているなら使用できるのでは?そして「一般国民」って誰だろう?という二点が私の疑問です。オリンピック自体にはあまり興味のない一般国民の私ですが、法的な課題については前回のブログに書いた通りで、権利問題がなければ当初のエンブレムを使っていいと考えています。

 また、今回はデザイナーへの個人攻撃というか、ネット上の私刑のようなものが広がっているところにも気味の悪さを感じました。

 これから公募で決められる新しいエンブレムが、「一般国民」に受け入れられることになるのか、注目どころです。それまでには、オリンピックのエンブレムというものがどんなコンセプトで、何を目指してデザインされるのかを理解できる一国民になっていたいと思っています。

参考にしたのはこちらのNHKニュースです。

2015年8月28日金曜日

パンチ&デストロイ 名画に穴! in 台湾


   全世界の美術館・博物館関係者が白目をむきました。まずこちらの映像をご覧下さい。




中央社のYouTubeより

   台湾で開催中の展覧会で、12歳の少年がつまずいて150万ドル(約1億8000万円)の油絵に穴をあけてしまったのです。よろけたひょうしに右手でカンバスを思い切りパンチしているのが監視カメラに写っています。油絵は300〜400年前に描かれたパオロ・ポルポラという画家の作品で、イギリスの新聞The Guardian(8月25日)は「まるで悪夢が現実となったスラップスティックコメディのようだ」と書いています。笑っている場合じゃないよ。

   記事では「少年はアート界の困ったちゃんリストに名を連ねた」という前置きで、来館者が作品を破壊した例を紹介しています。靴ひもを踏んづけて転び、300年前の中国の花瓶を割ってしまった男性、ピカソの絵に倒れ込み15cmも破いてしまった女性、論外なのは、モネの名画を故意に破壊したとして逮捕されたアイルランド人の男性です。

   ところが26日、事態は急展開をむかえます。この名画は別の作家の作品によく似ており、価値も3万4000ドル(約41万円)以下かもしれないというニュースを時事通信が配信しました。これは本格的なコメディに舵が切られた予感がします。

  いや、贋作疑惑というサイドストーリーに惑わされてしまうのは美術館・博物館関係者には本意でないと思います。もっとつっこんで欲しいのは、展示方法や会場マネジメントの隙です。くわしく映像を見るとわかるのですが、油絵の手前にはロープが張られているだけでなく一段高くなっていて、何かに気を取られていたらひっかる可能性があります。少年の右手には飲み物を持っているのも確認できます。これはアウトだねー。

  わたしは美術館側の視点で見ているので主催者に工夫が欲しいと思いますが、来館者にすれば、ガチガチに管理された空間ではなく、気軽に名画に触れられた方がいいという見方もあります。そのあたりの意図と要望をどうすりあわせるかはやはりプロである美術館が担うものだと思います。

Boy trips in museum and punvhed hole through painting | The Guardian (25 Aug 2015)

2015年8月26日水曜日

「全く似ていない」オリンピックエンブレムとリテラシー

 オリンピックエンブレム問題にモヤついています。


 東京オリンピックのエンブレムが、ベルギーの劇場のロゴを盗作したものだと指摘された、あの件です。それ以降、あれも似てるこれもパクリだとあら探しが盛り上がったり、おもしろ半分に考えた新しいロゴをTwitterにのせたりしているのを見聞きします。ヘラヘラしている場合じゃない、このロゴは盗用なの?問題ないの?いちばん知りたいのはそこです。だってもうCMにも使われてるし、オリンピックは5年後じゃん!


 そのあたりを、ラジオっ子が大好きなTBSラジオ「荻上チキ・Session 22」(8月18日放送)のゲスト、弁護士の福井健策さんが解きほぐしてしてくれました。


  盗用かどうかを判断する前に、まずは商標権と著作権の二つを区別する必要があります(ここからして知らなかった)。商標権はトレードマークやロゴ、ブランドネームなど、国や地域ごとに登録されているもの。ベルギーの劇場のロゴは、商標登録されていません。一方、著作権は音楽や映像などの著作物が対象で、世界のどこであっても模倣は侵害とみなされます。


   では東京オリンピックのエンブレムについてはどうでしょうか。


 法的には、ロゴやマークなどは著作物にあたらないそうです。そうしておかないと簡単なシンプルなロゴなども全世界的に独占されることになり、使えなくなる可能性があります。一方、著作物は、より複雑なものを対象として、長く強い権利を与えてバランスを取っています。


 アルファベットのもじりはある程度似てくるので、今回の件では侵害は認められにくいというのが福井さんの意見です。


   それなら堂々と使おうよ?ということにならず、デザイナーの神妙な会見ばかりがクローズアップされています。福井さんは、論点はエンブレムのデザインなのに、デザイナーがいい人か悪い人かという話に拡散していることに違和感があると言っています。国際的な大規模なイベントではこういった問題はよく起こるので、慌てずに、というのが福井さんの弁です。


  この一件では、私たちが正しい情報にアクセスし、それを根拠に判断できるリテラシーを持っているかどうかを問われたと感じました。エンブレムがパクリかどうかという議論に、私たちは妥当な反応ができていたでしょうか。


    オリンピックほどの規模はあり得なくても、同じように判断に迷うできごとは私たちの身近には多々あります。そんなときは、感情的にならないで、落ち着いて、知恵をあつめて解決する。それが真摯な態度だと思います。

  やや広げすぎた風呂敷を畳みきれないままですが、今日はこれにて終了といたします。

2015年8月16日日曜日

アムステルダム国立美術館だョ!全員集合


 遅ればせながらドキュメンタリー映画『ようこそ、アムステルダム国立美術館へ』を観ました。レンブラントの『夜警』、フェルメールの『牛乳を注ぐ女』などの傑作を所蔵していることで有名な、アムステルダム国立美術館の10年に及ぶ改修を追っています。粛々と進められる歴史的美術館の改修…なのかと思いきや、粛々なんてとんでもない、ゴタゴタに次ぐゴタゴタに振り回されっぱなしの舞台裏が明かされます。


 冒頭、巨大な重機がコンクリートの壁を噛み砕くシーンに不穏な音楽が流れます。美術館の再生という華やかな題材にしては違和感があるのですが、これは、大いなる不安の予兆なのでした。


 自転車が通れるスペースが狭い!意気揚々とエントランスの構想を語りはじめる建築家に、初っぱなから市民から反対意見が噴出します。これを皮切りに、大臣から景観保全の要請、度重なる建築案の変更、工事の中断、など難題が次々ふりかかります。そんな事態が起きるたび学芸員も建築家も、もちろん館長もてんやわんやです。でもなぜかそこにはコミカルさも漂います。始めは「美術館のコレクションは王室のものではない、市民のものですから、わはははは!」と、よく通る太い声で語っていた館長からついに、「納期に追われる方がよっぽどましだ!」という本音がこぼれます。この時点で彼の目はもう笑っていません。折衝ミーティングでは、(もうおうちに帰りたい…)という表情を浮かべているスタッフの顔にカメラが向けられます。混乱に乗じて自分のキャリアアップを密かに期待するハンサム学芸員も登場します。そんな中で「アジア館には金剛力士像を置きたいんだ。一週間家にこもって展示室の模型を作ったよ。40年後に『おじいちゃんがここを作ったんだよ』って孫にみせてあげたいな」というマイペースなアジア館部長のキラキラした瞳ったら!


 国立美術館の改修という歴史的な場面でスパイラルする、情熱と失望、あきらめとタメイキを、この映画は見事にすくいあげています。生きていれば必ずどこかで起きる、こんがらがった人間模様です。めでたしめでたしの大団円ではないけれど、みんなが望むエンディングではなかったかもしれないけど、私たちは日々途方に暮れながら生きていく。美術館に集まった人たちの表情が、そうやって人生は続いていくことを物語っています。



2015年8月3日月曜日

ドキドキで4! 「575と言葉」ワークショッブ in 山梨県立文学館

 甲府の最高気温が37.3℃という、今夏最も暑かった先週土曜日、山梨県立文学館で行なわれた「575と言葉」ワークショップに参加しました。


 講師の米光一成さんは「『ぷよぷよ』『BAROQUE』『トレジャーハンターG』などを企画制作したゲームデザイナー」、とまとめられたプロフィールをよく見かけますが、私にとっては公開句会、東京マッハの出演やレビュアー、編集ライター養成講座の講師などでの活躍が印象的です。文芸作品からスーパーホテルの温泉の素晴らしさまで、同じテンションで書かれているエキレビ!というレビューサイトが私のお気に入りです。米光さんの書いたものを読むようになって、なんでもかんでも読み散らかしっぱなし、書き散らかしっぱなしだった私は、言葉のあやつり方の面白さに興味を持つようになりました。


 そんな米光さんがこの山梨に?!ということで灼熱の甲府にのり込みました。


 参加者の対象は中学生以上、となっていたので、ティーンに混ざって大人がしゃしゃり出ていいものか…と思っていましたが、参加者は小学生から高校の文芸部、50代のおじさんも集まってわいわいムードでした。


 ワークショップは簡単なカードゲームで、5人ぐらいのグループに分かれて行ないます。キーワードと文字数(3、5、7、字余り)が書かれている小さいカードをめくり、例えば「はねる」で「5」というカードが出たら5文字で「はねる」を表す単語を考えます。みんなが出した答えをくらべて、一番票を集めた人が勝ち。そうきたかー!という単語もあれば、「軽い」で「3」というカードが出て「チャラ男」と書いた人が2人いるという展開もありました。小学生がいるグループから「セカオワ」という声が聞こえて(セカオワ…ってなんだっけ?)と自分の年を改めて実感し、胸キュンな言葉が飛び出る高校生グループに、なんてピュアな…と目が遠くなるなどもあり。ゲームが想定していなかった事態になったときは、なるべく面白くなる方へルールをゆるやかに変える米光さんの場さばき(?)にも同時に注目。


 最後は各グループで一番票を集めた人たちによる名人戦です。大喜利スタイルで米光さんが出したお題に答えます。「『ドキドキ』で4!」のお題で一番うけたのは女子高生の「呼び出し」。職員室に呼ばれちゃう高校生あるあるです。最後は「『しあわせ』で5!」。これは妙に重いお題。お子さんの付き添いで来たはずが、自分も参加してしまったという女性の答えは「息してる」。究極、と思ったところに小学生の女の子の「プレゼント」で一同拍手~!深淵からシンプルなしあわせにたどり着いて終了。


 私は美術館教育に関わってきたことがあり、ワークショップはいろんなかたちで見たり実践したりしてきました。ベースは教育なので、教室とは違う学びを提供したいという思いや、美術館や博物館に触れる機会を増やしてほしいという期待があります。効用を求めて窮屈になってしまうジレンマも感じてきました。でも、この日のワークショップでは、言葉や俳句という自分の得意分野から遠い場所で、参加者としてぞんぶんに楽しんできました。今日はもう、「楽しかったー!」で締めます。またどこかで、だれかとこのゲームで盛り上がりたいな。

2015年7月11日土曜日

帝国主義で人種差別的?「ラ・ジャポネーズ」をめぐって


 ここ数日ネットをにぎわしているボストン美術館の”Kimono Wedesday”(水曜日は着物の日)について考えてみます。ボストン美術館では今、印象派の展覧会が行われていて、これは、モネの絵画「ラ・ジャポネーズ」の前で打ち掛けのレプリカを着て写真を撮りましょうというイベントです。これに対してあるアジア系のアメリカ人(日系アメリカ人ではなさそう)から「帝国主義的」で「オリエンタリズム」で「人種差別的」あるということでイベントをやめるように抗議が行なわれました。抗議を受け、美術館はこのイベントを中止し、打ち掛けのレプリカを展示するだけという対応を行ないました。


 ツイッター上で抗議を呼びかけた人の主張や「典型的なアジア系のイメージを打ち壊そう」と呼びかけたfacebookページ、新聞記事などをあれこれ読んでなにが起こっているかを見ていきたいと思います。


 まず、facebookでのやりとり。抗議する人、それに反対する人の間でいくつか誤解が生じているのが分かりました。抗議者に対して日系アメリカ人はもとより、日本に住んでいるアメリカ人などが「着物を着ることなんてレイシズムでもなんでもないよ。着物は美しいし、日本の文化は素晴らしい。ちなみに僕の妻は日本人だ」云々…と反論しています。しかし、抗議している人たちは「絵のモチーフをまねて着物を着るな」といっているわけではなく、19世紀のヨーロッパ世界の帝国主義がいかに東洋人を下に見てきたか、この絵はそれを表しているといいたいらしいのです。興味本位に、ミステリアスな東洋というイメージしか持たず、我々西洋人とそれ以外、という差別的なラベル付けは現代のアメリカでも続いているではないか、と言っています。だから安易に文脈を理解せずに着物を着てポーズを取るのは「帝国主義的」で「人種差別」と主張しています。


 もう一点、さらにややこしいことになっているのが、初めに日本で紹介された記事が、「民族蔑視」で「帝国主義」なのが抗議の理由だと端折られて書かれていることです。これに対して「帝国主義」を日本がアジアに対して行なったものと思っている人がいて、ツイッター上ではいまさらなにを言う、とか、言いがかりだとか、ここでもまた違った文脈でくすぶっています。


 私が読んだ中ではThe Boston Globeの記事が全体の状況をうまく説明していました。この記事では「ラ・ジャポネーズ」を美術史的な観点からも書いています。現代の活動家や研究者の中でも、当時のジャポニズムは非西洋文化を単にミステリアスで理解不能でエキゾチックで、それゆえ自分たちより劣った人ととらえていたと考える人がいることを指摘していました。


 残念ながら10日の時点でfacebookのページは見られなくなっており、その後の展開を見ることができませんでした。


 一連の騒ぎを追って、いささかうんざり、というのが私の感想です。まずは「反○○」活動の乱暴さ。始めから怒っちゃってるからもう後に引けない。怒っている人を諭すかたちをとりながら、そこに燃料を投下する人がでてくる。美術館側も意図があってインタラクティブな展示にしたわけだし、「一部の人を不快にしたようなのでじゃあ止めます」って言って問題が解決したのかは分かりません。しかし、展示に悪意や他意がなければいいのか、正義に基づく主張は全てが許されるのか、また、日本人はこの議論の当事者になるのか、疑問が残る案件です。

2015年7月7日火曜日

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』


















 気になる本を読んでみました。ここ数ヶ月、ツイッターでよく見かけた『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(伊藤亜紗著)です。美学の研究者が、見えない人がどのように空間を認識し世界を構築しているかを紹介しています。


 ダイアログ・イン・ザ・ダーク(DID)という、視覚障害者のアテンドに導かれ、真っ暗闇の空間を体験するというイベントに参加したことがあります。案内してくれたアテンドの心強さに、見えないのに、なんで見えているみたいにふるまえるんだろう、と不思議に思いました。それと同時に、見えない人は、見える私が体験したことのない感覚で生きているのかもしれない、それはなんだろう、という疑問がずっと頭にひっかかっていました。


そんな疑問にひとつずつ答えてくれたのがこの本でした。先天的に見えない人、全盲の人、中途失明の人など何人もの見えない人(見えないといってもさまざまなのでこの本では「見えない人」という表現になっています)にインタビューして、見えない世界とはどういうものかを論じています。


 見えない人が街を把握するやり方について書かれている部分があるのですが、そもそも見える人と見えない人では空間の捉え方が違うということが分かりました。見える人はあそこにスーパーがあって、ここには本屋があって、という具体的な視覚情報に頼っていますが、見えない人は抽象的にとらえた空間に、駅や信号といったランドマークを置き、その配置や関係で街を理解しているそうです。見える人が共有している普遍的な街の風景の中で、見えない人は視覚以外の感覚で補完して生活しているのだと思ってたので、見える人と違うレイヤーの空間があったことが衝撃でした。DIDのあとに探しあぐねていた「私が持っていない感覚」は、把握している空間の違いから生まれたものだったのかもしれません。そのあとも空間把握について書かれているのですが、見えない人は見える人に比べて、より空間を抽象的に、そのままのかたちで理解しているそうです。見える人は自分がいる場所から見えるものに左右されますが、見えない人はより俯瞰的に空間を捉えているので死角がない、とも書いてありました。


 さらに面白かったのが、見える人と見えない人とのレイヤーの違いは、思考の方法にもみられるということです。それまで斜視だった人が立体視ができるようになった後、空間にある物と物の位置関係がぱっと見て分かるようになっただけでなく、論文を読む時にも全体を一気に把握できるようになったそうです。情報処理の仕方が変わり、部分を積み重ねて理解するというプロセスが、全体を把握して細部を検討するという思考方法に変化したということです


 もうひとつ紹介したいエピソードは、全盲の子どもが作った壷のような粘土の作品です。見た目に壷のようなものであれば、表面に模様をつけるのが普通だと思ってしまいますが、その子は内側に模様をつけ始めたそうです。見えない人は視覚に縛られないゆえに表面、裏面、外側、内側といった、空間を構成する位置関係から自由になるのだそうです。こうなると、普遍的と信じている空間そのものがスライムのようにぐんにゃりと変わっていく感覚になります。


 ここでは書ききれませんが、ブラインドサッカーや美術館のソーシャルビューについても紹介していて、見える人と見えない人のコミュニケーションの取り方についても分かりやすい例が多く取り上げられています。文体も温かみがあり著者のまなざしが感じられるようでした。見えない人との関わりで培ったゆたかなまなざしとも言える気がします。

2015年7月4日土曜日

『シンプルなかたち展:美はどこからくるのか』


 今回は21-21 DESIGN SIGHTとともに、森美術館の「シンプルなかたち展:美はどこからくるのか」を観にいきました。六本木二本立てです。このキュレーターとはうまい酒が酌み交わせそうな、私の好みにぴったりの展覧会でした。


 シンプルなかたちをテーマに考古学資料から現代アートまで領域横断的に集められた作品が同位にあり、直感的な展示が特徴的でした。ガラスケースにたたずむ円空仏を覗き込み、天井に突き刺さりそうなブランクーシの鳥を見上げ、オラファー・エリアソンのインスタレーションに目を奪われ…視点が様々な方向に引きよせられました。


 シンプルなかたちからは、美しさとともに「正しさ」のようなものも感じました。数学や物理工学というジャンルからも作品が取り入れられていることからも、そういった意図があったのではないかと思います。

 私的圧巻は、ルチオ・フォンタナの赤いキャンバスの作品から、田中信行の漆の作品までのコーナーでした。「この一角、欲しい…」と思うぐらい心掴まれました。

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『シンプルなかたち展:美はどこからくるのか
森美術館
〜2015年 7月5日(日)

2015年7月3日金曜日

『動きのカガク』展



 21-21 DESIGN SIGHTで『動きのカガク』展を観てきました。動きの仕組みとそれを使った作品が展示されています。平日の午後でしたが、来館者は学生さんらしき人たちや家族連れなど様々でした。

















 タイトル通り動く展示で、触って体感できるものが多く、来館者も積極的に動いてる風景がミュージアムっぽくない面白さがありました。レスター大学のMOOC、「Behind the Scene at the 21st Century Museum」でも展示空間について言及している部分があり今回の展覧会も個人的に興味がありました。MOOCで紹介されていた新しいリバプール博物館は、順を追う必要がなく、好きなように展示室を廻れる建築にしてあるという点を強調していました。この企画展も、仕切りのないフロアに作品が並んでいて、来館者が空間の中で混ざりあっているように見えます。インタラクティブというより、興味のままに来館者が作品に誘導されているとも感じました。

作品のキャプションには動きの仕組みと材料が紹介され、それ自体が展示のようになっていました。深く知りたい場合はこのキャプションを読めばいいし、子どもなら「ワーイ!」と単純に楽しめます。来館者の年代や知識に違いがあっても、どこかで接点が見つけらるところがこの展覧会の魅力です。

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動きのカガク』展
21-21 DESIGN SIGHT
〜2015年 9月27日(日)
毎週火曜日休館 (9月22日は開館)
10:00〜19:00

2015年6月28日日曜日

いよいよ後半戦、そしてMOOCとは?

 6月から始まったレスター大学のオンライン講座がそろそろ5週目に入ります。ここで中間報告です。意気揚々と始めたものの思いのほか内容がガチで、難儀しています。余暇でこんなに追いつめられるとは…。


 さて、4週目のテーマは「博物館、社会正義、人権」で、博物館が奴隷、ジェンダー、障害などの社会問題にどう取り組んでいくかを議論しています。テーマが社会や政治に及ぶためか、コメント欄も白熱しています。政治的な意見は博物館に必要ないとか、博物館で公平な視点は担保されるのか?とか、シビアな意見も多く「イイネ!」ばかりではない緊張感があります。そんな流れにドキドキとしつつも、自分のコメントに他の受講者からリプライがきてやり取りが弾むと、大人数の教室でディスカッションするのとは違った深みを感じます。


 受講するまで知らなかったのですが、このように無料で公開されるオンライン講座はMOOC(Massive Open Online Courses) と呼ばれています。大学などに属さずに教育を受けられるサービスです。日本版のJMOOCも2013年に設立されました。課題をこなし小テストをクリアすれば修了証が発行されるところがiTunes Uなどとは違うところのようです。


 次回は無事修了の報告ができたらと思います。と自ら鼓舞。






2015年6月10日水曜日

Behind the Scene at the 21st Century Museum

 今日は6月から始まったレスター大学博物館学部の無料オンライン講座について紹介します。タイトルは「Behind the Scene at the 21st Century Museum (21世紀の美術館における舞台裏)」で現代の博物館の課題について6週間で学びます。イギリスのオープンユニバーシティが提供しているFutureLearnが協力しています。もう十数年前のことですが私はこの大学で学びました。そのときから時間が経っているので、最新の博物館学事情を知るチャンスだと思い受講を決めました。

 テーマに基づいたインタビュービデオや資料を各自で取り組み、意見をコメントやリプライすることで議論を深めます。博物館で働いている人、学生、他ジャンルで仕事をしている人、退職者など参加者のバックグラウンドは様々です。現場の視点や一来館者、保護者の視線、もちろん大学の先生方のコメントもあり、クラスで学んでいた時に比べて広く課題に気づかされます。

 専門的に学んできた分野とはいえ、読んだり聞いたり、意見を書いたりするのは久しぶりで一週目にして挫折の予感…。期間内の修了を目指して、途中経過などもご報告したいと思います。

Behind the Scene at the 21st Century Museum