2012年9月30日日曜日

芸術と科学、その先にみえるもの

 芸術と科学の関係を思わぬところで目にしました。JT生命誌研究館が発行している、生命誌ジャーナルというウェブ季刊誌の2006秋号です。少し前の記事ですが、色あせない内容だったので取り上げたいと思います。
 
 JT生命誌研究館の館長である中村桂子さんと、名誉顧問の岡田節人さんの対話です。中村さんのお名前は色々な媒体で拝見していましたが、生命誌研究館とその具体的な活動については初めて知りました。
 中村さん、岡田さんともに生物学の専門家、対話のタイトルは「知と美の融合を求めて」です。
 
 その中で岡田さんの「学問でも芸術でも同じです。」という発言が目を引きました。これは中村さんの「『わかる』という言葉は曲者です。それと最近の曲者は『役に立つ』。すべてはこの二つで片づけられます。危険な言葉ですね。」という発言を受けたものです。はっ、と思いました。これはまさに、私が芸術にもやもやしていたことに似ている!「わかる」と「役に立つ」で解決しないものはなかなか価値を説明できないし、人を動かせない、というのは芸術の世界にも当てはまると感じてきました。

 分からないことに意味がある、という中村さんの言葉に続いて「近頃は、ますます暗黙値以上の神秘の世界に生きたいと願っとる男ですから、わかっとるわかっとらんかと言うような話を聞くと、まあ、なんとも低級な言い方をすると呆れます。」という岡田さんの言葉は、清々しすぎて笑いがこみ上げてきました。しかし、中村さんによると、分かること、それを役に立たせることが学問の主流になっているということです。

 少し長いですが、中村さんの言葉を引用します。「一つをわかると、そこからわからないことが生まれてくる。そういう広い世界が見えてくるのが専門家だと思うのです。わかった一つから、さらに見えないことをどう見通すかというところが、専門家の腕の見せどころではありませんか。専門でない人は、言われたところだけ見てしまうから、広く見えている専門家が語るべきところは、むしろわからないところだと思っています。ところが社会はわかったことだけを求めるようになってしまった。」

 芸術も同じように、今目の前に見える先の世界を押し広げることで、価値や面白さを引き出し、人の心を動かすような衝動を立ち上げます。まさに、わかる、わからないの境界に切れ目を入れ、役に立つことだけを価値判断にしないことです。
 
 もう一つの問題としてアンケートを取り上げています。中村さんはこの施設の活動計画にアンケートを導入することを信用していないそうです。予算をつけるためにアンケートで集計し、時代が要求しているからこの活動をしましょうというのでは、新しいことはできない、と中村さんは指摘します。アンケートから導きだそうとしていることは「わからないことに価値と可能性がある」という考えから最も離れているということだといえるのでしょう。

 芸術に関していえば、派手で受けがよく、人が集まるものには力が入れられて、堅実だけど地味なものが蔑ろにされる場面を見るにつけ、私はいつも「なんでも面白きゃいいのか!」と毒づいています。しかしお二人はもっと洗練された言葉で、「学問や芸術が娯楽化してしまったことが問題である」と語っています。

 この対話は中村さんの次のような発言にまとめられると思います。「生きていること、生き物、自然・・・。そういうものを題材に言語化した作品を作っていき、それが品のある娯楽になる。」ここで言われている言語化とは、芸術においていえば、視覚、聴覚などによって成り立つ芸術表現であるといえます。

 専門、というと、それぞれ独立した狭い世界を想像しがちですが、お二人の対話からは、専門の世界を突き詰めると、どこかで水脈がつながっているという気がしてきます。そうならば、どんな学問の分野にも芸術を理解する考え方が隠されているし、その逆もありえます。ずいぶん長い間、勝手にもやもやして煮詰まっていましたが、新しい道がみえてきました。

生命誌ジャーナル2006年秋号[知と美の融合を求めて]


2012年9月23日日曜日

建築に耳をすます

 耳についてのデザイン、と聞いてなにを想像しますか?音楽ホールや劇場の音響?あるいは視覚障害者のための音のガイダンス?今日取り上げるのは、TEDで建築と音について語ったJulian Treasureです。

 「私たちは気が狂いそうになるような環境をデザインしている」。Treasure氏はざわついたレストランや、チープなスピーカーで流れる飛行機のアナウンスを例にあげました。私自身が聴覚過敏気味なところがあり、人の声や生活音がとても気になることが多いので、どのような話になるか期待大でした。

 うるさいレストランはさすがに気に障ります。と言いつつ、飛行機のアナウンスは、しかたがないのかな、とあまり疑問には思っていませんでした。彼によると、このようなひどい音環境は、私たちの健康、社会的なふるまい、効率に影響するそうです。健康や効率はなんとなく想像がつきました。プラス、社会的ふるまいというは興味がわきます。

 悪影響の例として、彼は病院と教育をピックアップしました。病院については、医療機器の音が患者の睡眠を妨げたり、医療従事者の正確な判断を邪魔するなど、言わずもがな、ですが教育についてはもう少し詳しく聞きたいと思いました。

 彼は教育を、花の水やりという面白いメタファーで表しました。花に届く前に蒸発してしまう水があるように、ノイズであふれている音環境では、授業の内容が届かないままになってしまう子どもたちがいます。彼はそのような子どもたちを三つのグループに分けて説明しました。

 まず、風邪で鼻や耳が詰まっていたり、花粉症を持っている子ども。このような子どもは、耳が不自由な子どもと同じぐらい聞くことを難しく感じています。そのグループが全体の約八分の一程度いるそうです。二つ目のグループは、英語が母国語でない子ども、そして三つ目のグループは内向的な子ども、だそうです。内向的な子どもたちはうるさい環境で集団行動をするのが苦手なのだそうです。私はここに注目しました。なぜなら私がまさに三つ目のグループの人だからです!予期できない情報が耳にばらばら入ってくると、話がどこに進むのか分からなってイライラしたり、不安になったりするのです。このようなグループの子どもたちは、劣悪な音環境のせいで充分な教育が受けられない事態に陥ることになります。

 生徒だけでなく、先生にも影響があります。ドイツの研究によると学校の教室の平均的な騒音レベルは65デシベルで、これぐらいのうるささにいると、先生は声を張り上げるだけでなく、心拍数まで上げているそうです。先生たちは心臓発作の危険を冒して授業しているのです!

 音環境を積極的によくする、という考え方はとても新鮮でした。視覚や触覚、味覚に比べて、聴覚は逃げがたく、時には暴力的であると感じます。このあたりがますます音に過敏になってしまう理由と言えるかもしれません。安全な音環境に居たい、という欲求です。先ほど上げられた、内向的な子どもが授業に対応しきれなくなってしまう状況がよく分かります。
 
 音環境をデザインするためには、静かな環境を作るより、もっと複雑な視点が必要になります。彼も"Sound Education"というカンファレンスで音響学者、政府関係者、教師などと、「耳と教育」について議論を交わしたそうです。

 彼はこのスピーチを締めくくるにあたって、建築家の友人の言葉「目に見えない建築」という言葉を取り上げました。見た目だけでなく、生活の質や健康、社会的ふるまい、効率を高めるために音に重視した建築という意味です。建築家が競い合って、斬新で、人を驚かすような建築を作り出す場面を目の当たりにすることも大好きです。それに加えて「目に見えない建築」に私はデザインに対する希望を感じました。