2013年12月4日水曜日

読んだらバトれ!

 さいきん蟄居して本ばかり読んでいました。週に一度は図書館に通う日々を過ごしているのですが、先日近所で開催される「ビブリオバトル」のお知らせに目がとまりました。ビブリオバトルとは、それぞれお勧めしたい本を一冊もって集まり、5分で本の紹介(原稿やパワポはなし)をしてディスカッションを2~3分おこなった後、一番読みたくなった「チャンプ本」を投票で決めるという書評ゲームです。3人集まればできるし、少人数ならスタバのようなところでも可能です。
 早速公式サイトとYouTubeにアップされている都主催の決戦の様子を見て、いても立ってもいられなくなりました。感銘を受けた本はかたっぱしから家族に読ませたがり、けむたがられる私としては、公式な場で本を薦められるというのはうってつけじゃないか?しかし、大学生の公式戦に出場しているバトラーたちのプレゼンを次々と見ていくうちに、ううむ、と唸っていまいました。これはかなり難しい。本への愛情があふれすぎると空回ってしまうし、ネタバレしてはいけないし、全てを5分に収めなくてはいけない…。試しに自分が好きな本についてプレゼン原稿のようなものを書いてみてがっかりしました。私はなんとボヤっとした言葉でしか感動を語れていなかったか!
 この時はまだ参加するか迷っていましたが、2日間開催されるということだったので1日目に偵察に行ってどうするか決めようと思っていました。
 今回私が行ったビブリオバトルは、森の中のこじんまりとした会場で開催されました。バトラーは5人、観戦者を入れて9人という小規模バージョンで親密ながら緊張感のある会でした。お知り合いの方達同士のようでしたが、人の前で話す、伝えたいポイントが伝わるように話すというのは見ている方も真剣になります。そして次の日、私はどうしたでしょうか?参加してしまいました!バトラーが3人というミニマムバトルだったので投票はなしになりましたが、むかし読んだことがある本でも他の人の言葉で語られると、その時読みのがしていた情景に気づくことなどもありますます面白さと奥深さを実感しました。
 ビブリオバトルはもともと京都大学情報学研究科共生システム論研究室の谷口忠大さんが、人の発表を聞くだけという勉強会を変えようと考えて始めたものです。紹介された本は無理に読まなくてもいい、面白いと思ったら読む、というスタンスで今のスタイルに落ち着いたそうです。次第にこの活動が他の大学に広がり、2010年に普及委員会ができました。
 小中学校の授業や企業の研修、私が参加したような小さな集まりなどでもビブリオバトルは開催できるし、複雑なルールがないところがやる気を起こさせるポイントだと思います。そして私が気に入ったのは、巧いプレゼンを決めるのではなく、読みたくなった本、チャンプ本を決めるというところです。実は「バトル」と聞いて燃えた私は、紹介したい本を何度も読み返して、本のエッセンスとそれに絡む自分の思い入れのバランスを考えるのにずいぶん時間をかけました。なにしろ読みたいと思わせたら勝ちなのですから!バトルならやっぱり勝ちたいから!
 しかしこれだけ頭を使う、しかも勉強とか仕事ではなく遊びに真剣になるのはなかなかない経験です。これからもバトラーとして参加したいし、自分でも企画もしてみたいと思えるイベントでした。ちなみに私が紹介したのは舞城王太郎の短編集『キミトピア』でした。


2013年2月26日火曜日

『キャパの十字架』



(English follows Japanese)

 沢木耕太郎著『キャパの十字架』を読みました。 
これは過日のNHKスペシャル「沢木耕太郎 推理ドキュメント 運命の一枚 ~"戦場"写真 最大の謎に挑む~」を観て買わずにいられなかった本です。番組は沢木氏の取材をもとにキャパの出世作「崩れ落ちる兵士」が実は兵士の死の瞬間をとらえたものではないかもしれない、さらに撮ったのはキャパではないかもしれないという謎に迫っています。信じていたものが「崩れ落ちる」衝撃的な内容でしばらく呆然となりました。ちなみに私の故父は元写真家で、本棚にはキャパの書いた『ちょっとピンぼけ』があったことを覚えています。父も少なからずキャパに憧れていたはずなのでこれを知ったらショックで落ち込むだろうな!とも思いました。

 さて『キャパの十字架』ですが「あの戦争写真は嘘だった!」とあたまから糾弾するものではありませんでした。真贋の追跡はもちろん面白かったのですが、沢木氏のキャパに対する愛情と真実を知りたい思いの交差が読み手にひしひしと伝わってきました。あの写真はやらせなのか、だとしたらそれをどう検証すればいいのか。証拠を拾っていく沢木氏のねっちりしたノンフィクション作家魂に心打たれます。現場だと思われる村を何度も訪ねるのはもちろん、模型と照明を使って撮った位置を検証したり、銃で撃たれた時ほんとうにあのように倒れるのか計算したり。「沢木氏、つぎは!つぎは何するの?!」という具合にあらゆる視点から隙を埋めていきます。それらをひとつずつ紡ぎつづけて荒縄にまでなってしまったようなガッチリした筆力に引き込まれました。

 個人的にはキャパの写真に限らずドキュメンタリー写真や戦争写真についていつも煮え切らない気持ちが残ります。真実かそうでないか、の二極で語り始めてちょっとケンカっぽくなるというか両者譲らぬ、という空気にしてしまうのがよくないよなあ、と思うのですがふさわしい態度が分かりません。「崩れ落ちる兵士」についてもう一度考えてみます。反ファシストにとっては正義の主張を代弁するものであったかもしれないし、掲載した雑誌『ライフ』にとっては一大スクープだったでしょう。時代が進むにつれてジャーナリズムのアイコンになったり平和への祈りに通じるものにもなります。ロールシャッハテストのように見る人によってそれぞれに意味のある形が浮かび上がってくるものであり、「こうあってほしい」という思いが一枚の写真を変える、というのが真実なのかなと今のところは結論づけておきたいと思います。沢木氏は後書きで、今も「崩れ落ちる兵士」に関する検証作業を進めているしこれから新しい資料が発見されて反証されればそれに越したことはない、と書いています。
 
 この本を読みながら高校生の時に父と話したユージン・スミスのことを思い出しました。彼も写真家集団マグナムに属しキャパと同じ年代に戦争や社会問題を取り上げた写真を撮りました。その時は水俣病の被害者を撮った写真について話しました。「あれはもしかして少しポーズを取ってもらったかもしれないがそれでも写真の価値は変わらない」と言った父に「ちょっとでもそんなことをしたら真実じゃない!やらせだ!むーっ!」と反発したものです。この本を読み終わった今だったら、うーん、「それは残された写真からしか判断できないよね」と濁してしまうかな。


I have read a book "Capa's Cross" by non-fiction writer, Kotaro Sawaki.
I didn't  resist to buy this book after watched the TV Programme in NHK. That is about Robert Capa's famous photo; "The Falling Soldier" he had taken in Spanish Civil War. Everyone believes that photo caught the moment of death, though, from the data covering by Sawaki, it might have been faked. Over more, he said this photo might not have taken by Capa. I was shocked to fall. Because I was one of those who believes that photo was by Capa, and the soldier was falling to die. Incidentally, my late-dad was a photographer. I remember there was a book by Capa, " Slightly Out of Focus" in his bookshelves. I'm convinced he admired Capa, so if he had known this, I thought he would be shocked.
I didn't resist buying this book after watched the TV Programme in NHK. That is about Robert Capa's famous "The Falling Soldier" he had taken in Spanish Civil War. Everyone believes that photo caught the moment of death, however, from the data covering by Sawaki, it might have been faked. Moreover, he said this photo might not have taken by Capa. I was shocked to fall. Because I was one of those who believes that photo was by Capa, and the soldier was falling to die. Incidentally, my late-dad was a photographer. I remember there was a book by Capa, " Slightly Out of Focus" in his bookshelves. I'm convinced he admired Capa, so if he had known this, I thought he would be shocked.
The book did not blame that Capa's "The Falling Soldier" was totally fake. What moved me was crossing of Sawaki's sympathy to Capa's life and search for truth. He had a long journey; was that fake? If so, how could we verify this? It is Sawaki's tough soul as   a journalist. It goes without saying that he visited the village where that photo was believed to taken. He bought a small-sized human model and lighting equipment to simulate the point where photographer took that photo. Also, he researched if it had been possible that the soldier had fallen like that posture when he had been shot. He calculated the speed and trajectory of riffles when soldiers had used while The Civil War. Sawaki investigates every possible evidence. Those investigation and contemplation drew me in.
Personally, I falter out to say documentary photo including Capa's works' meanings  and values. Is it true of fake? Is it just peep or not? I understand extreme argument is pointless, however, I still don't find appropriate approach for those documentary photos. Let's see "The Falling Soldier" again. It has a voice of anti-fascists, and for "LIFE" which published the photo should have been a monumental scoop. Time goes by, it would become an icon of journalism, or symbol of pray for peace. It reminds me of Rorschach test. One image draws different meanings by different testees. We also expect what we want see in photos. In a postscript, Sawaki wrote he was still investigating this subject, and if we would discover a new source, he will be happy to overturn his statement.
While I read this book, I recalled what my dad and I talked when I was a high school student. It was about Eugene Smith, who is also a photographer, a member of the Magnum, and took photos of war and social issues. We talked about one of his famous piece of works about patients and mothers of pollution disease in Minamata, Japan. My dad said if Smith asked them to take pose, the value as photo never changes. When I heard this, I objected to say if you asked so even once, it ruined everything, it was not a documentary! Now after I read this book, what do I say to him? I might say what I can conclude is only from the image in photos.
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2013年2月14日木曜日

アートとジャーナリズムの国境線

  お久し振りです!今日はPrix Pictetという写真賞にみる写真の微妙な位置づけについて考えてみます。podcastのMonocleでみつけたものです。

 Prix Pictetはスイスのピクテ銀行という超富裕層を顧客とするプライベートバンクが社会貢献活動として設立したものです。2008年から始まり、世界の社会問題や環境問題などに関わりのある写真に賞を与えてきました。これまでのテーマは「Power(力)」「Growth(成長)」「Earth(地球)」「Water(水)」。参加者はジャーナリスト団体やキュレーター、美術館、芸術団体、通信社などからの推薦されます。自薦も可能です。Monocleで紹介していたのは2012年10月にロンドンのサーチギャラリー行われた「Power」の展覧会でした。

 Powerというテーマには写真家の様々な視線が感じられました。紛争や移民の若者の諍い、あるいは東日本大震災の津波を写した作品もありました。

 podcastでインタビューを受けていた建築家のノーマン・フォスター卿は「例えば持続可能性について、それを言葉にすることはできる、論文を書くことはできる、議論することはできる。しかし写真に撮ることでより力強いイメージを与えいろいろな解釈をすることができる。不快感のあるものもあるが心を動かすものでもある」と語っています。

 紹介されていた作品の一つに2010年のメキシコ湾油田流出事故を空撮したものがあります。大惨事であるはずなのにコバルトブルーの海に流れる油が油絵のようにも見え「disturbing beauty(不穏な美しさ)」とMonocleのレポーターが語っています。

 この賞の意義に異議は唱えませんが、アートとジャーナリズムの枠を越えるというような位置づけに微妙な思いを抱いてしまいます。フォスター卿の語る「不快感があるが心を動かすもの」や「disturbing beauty」などという言説は呑気じゃない?と言いたくなります。深刻な問題を抱えている現場に対して「不快だが美しい」とわざわざ言うのもジャーナリズムがアートに逃げているように感じます。写真家自身も戦略的に撮っているのだとは思いますが。こういったスタイルも芸術表現の一つだといわれても私にはどこか引っかかるものがありました。悲惨な状況にふと見えた美しさに気づいてしまう居心地の悪さに鈍感すぎやしないかと思うからです。

 大金持ち相手の銀行が社会問題を取り上げた写真に「社会貢献活動」と銘打って賞を与え、気取った雰囲気のギャラリーで展覧会を開くという絵面に、庶民の私としてはちょっと反発したいというのもあるかも。しれませんね!

 次回も写真について書く予定です。