2008年2月29日金曜日

猥褻物?アート?

 ある美術展のポスターを巡る話題を、イギリスの新聞The Guardianのウェブサイトで見つけました。まずは2月13日付けの"Venus banned from London's underworld(ヴィーナス、ロンドンの地下から拒否)"。ロンドンの美術館、ロイヤルアカデミーで3月から開催されるクラナハの展覧会ポスターが、ロンドンの地下鉄で掲示を拒否されたというニュースです。

 問題のポスターは、ドイツの画家クラナハが1532年に描いた「ヴィーナス」という作品が使われる予定でした。この作品は、ネックレスと薄いガーゼしか身に付けていないヴィーナスが、艶かしいポーズで描かれています。ロンドンの地下鉄広告には「性的に描かれた男性、女性、子供、あるいは明らかに性的な文脈で描かれたヌード、セミヌード」を禁止するというガイドラインが設けられており、クラナハの作品もこれに抵触したようです。ロンドンの地下鉄のスポークスマン曰く、「ロンドンの地下鉄は毎日何百万人も利用するものであり、必ず目に入ってしまう広告については、不快に思う人を極力考慮する。」ということだそうです。

 しかし3日後の2月16日に掲載された"Venus allowed to descend into the underground(地下へ行くことが許されたヴィーナス)"という記事によると、ロンドンの地下鉄は「ヴィーナス」のポスター掲示を認めたと言うことです。再びスポークスマン、「この作品の文脈を鑑み、地下鉄でのポスター掲示を行うことにしました。」とのこと。

 このような場面で、何をもって性的な表現とし、人の気分を害すると判断するかは微妙な問題です。芸術表現の知識や、美術館での鑑賞経験の多い少ない、特定のイメージから喚起される意味をどう理解するか、などは文化的、社会的、教育的背景よって変わるものだからです。だからこそ、誰もが満足する着地点をガイドラインとして設定するのは難しいと私は感じます。こういった問題は、ひとつひとつのケースに応じて結論を出すしかないのでしょう。

 記事で面白かったのは、「宗教改革を行ったルターの親しい友人でありながら、官能的なヌードを描いたことで有名なクラナハ・・・」という表現をしていたことです。宗教家と交際がありながら扇情的な作風、と両極な印象を暗示しているところに、ある種の納得いかなさがにじみ出ているようで、苦笑してしました。公共の場における美術表現の許容範囲を考えることは、色々な立場からのこのような「納得いかない感じ」と折り合いを付けていくことなのかもしれません。


Guardian Unlimited "Venus banned from London's underworld” 2008/02/13
から抜粋しました。

2008年2月23日土曜日

嫌悪感と好奇心

 『Museum Revolutions: How museums change and are changed(博物館革命 いかに博物館は変化し、また変化を余儀なくされてきたか)』という本を読んでいます。2006年にイギリスのレスター大学博物館学部で行われたカンファレンスをまとめたものです。私もこのカンファレンスを聞きに、イギリスまで行ってきました。

 発表の中でも特に面白かった、サウザンプトン大学のMary M. BrooksとClare Rumseyの論文から読み始めました。タイトルは'Who knows the fate of his bone?' (彼の骨の運命は?)、博物館や美術館で展示物として扱われる、人体資料についての研究です。これら「本物の人体」にはミイラや人骨、標本など、様々な形がありますが、ここでは特に人体資料の展示に対する来館者の嫌悪感と好奇心のせめぎ合いに注目しています。そして博物館のプロフェッショナルは、文化的、科学的、芸術的視点からこの問題にどう取り組んでいくべきか、問いを投げかけています。

 ここではとても興味深い調査が紹介されています。私たちは資料としての人体にどのように嫌悪感を持ち、また興味をもつのか、を探ったものです。調査は、豚の心臓、足、皮膚を模したもの(人間の皮膚に似ている)、人の毛髪を編んだもの、ガラスの箱に入った親知らず、そして偽物の歯を前に、学生たちのグループに感想を話してもらうというものでした。多くの学生たちは、豚の一部を模したものに嫌悪感を表し、歯の模型に関してはすべての学生が触りたがらなかったそうです。また、髪の毛に関しては、母親の髪の毛をブラシしたこと、祖母の巻き毛、といった個人的な思い出を呼び起こすものであったものの、手に取るのは躊躇する学生もいました。カンファレンスで発表したBrooks氏は「ちなみに髪の毛は、私が提供したものなんですけどね。」と言って会場の笑いをさらっていました。

 このように生きた肉体から引き離された人体の一部は、触れることを拒みたくなる強い力を放っている一方、ミイラやプラスティネーションの企画展は多くの入場者を引きつけ、結果的に収益を上げるヒット展覧会になるという現実があります。私たちは、人体資料に対してどこか恐いもの見たさのような魅力を感じつつ、感情的、倫理的な禁忌も同時に感じるという非常に興味深い反応を示すことが分かります。この論文によると、先史の人骨は受け入れられるけれど、現代人の人骨は駄目、同じように大人の人骨や乾燥している人体資料なら大丈夫だけど、子供の骨や生っぽい、しっとりした質感の資料に対しては拒否感、という反応も見られるようです。博物館や美術館という文脈の中において、来館者の心理の触れ幅がこんなにも大きくなるというのは驚きでした。

 ところで私は、数年前に抜いた親知らずを取ってあります。手に取って眺めているうちに、これはアクセサリーにしたらいいかも?と思い始めました。周りの人に話したところ、面白かったのは反応がまっぷたつに分かれたことです。「悪趣味だから止めなさい。」とか「気持ち悪い!」と直感的に反対する人と、「ナイスアイデア!」とか「指輪にした人を知ってる。ピアスにしたら良いんじゃない?」と全面的に賛成してくれる人。そのあまりのまっぷたつぶりに驚かされました。今のところ、私の親知らずの運命も未定です。

編集:Simon J. Knell, Suzanne MacLeod, Sheila Watson

出版社:Routledge

2008年2月17日日曜日

『わたしいまめまいしたわ』


 金曜の夜、夜間開館をしている東京国立近代美術館へ行きました。『わたしいまめまいしたわ現代美術にみる自己と他者』という企画展を見ました。

 この展覧会では、5人の学芸員が8つに分かれたコーナーを担当しており、各コーナーの始めには、担当した学芸員の解説がついています。私は始め、この構成がよく分かっておらず半分過ぎまで来てしまいました。ところが途中からこの構成を知って、俄然面白さがアップしました。国内外の時代もさまざまな作家の作品を、個々のキュレーターの視点を通してみることで、自画像、身体、死などのテーマがぐっと近くに感じられました。それに、今まで知っていた作家や、好き嫌いで判断すると嫌いだった作家の作品も、「こう見ると、こういう意味をひきだせるのね。」とか「このキュレーターはこう言ってるけど、私はこう思う。」というように、自分を縛っていた見方から解放されるような気持ちにもなりました。

 このプロセスは、美術作品、とくに現代美術作品に対して私の中でもやもやしていたものへの、ひとつの回答のようにも感じました。これまでいろいろな場面で耳にしてきた「現代美術は分からない」という(やや苛ついた)反応に対して、しっくりくる答えができないものかとよく考えていました。古文書とか仏像を前にして「こういうのは分からない」というあからさまな拒否反応はあまり聞かないのに、こと現代美術に関してはなぜか「分からない」ことが人々のネガティブな気持ちを呼び起こしているようにも感じました。などと言っている私も、展覧会を見ながら、ここで何か言葉にしないとダメだ!という脅迫的な思いになることが時々あります。

 現代美術と自分とのこういった距離感は、もしかすると「よりどころ不足」のようなものからきているのかもしれません。分野は全く違いますが、スーパーで時々見かける、作った人の名前が明記された野菜のように、展覧会の作品も「私がこんなふうに選びました」というのがもっと明らかになっていると、見る方は一歩前に進む指針を得られるのかもしれません。そして見る方はそれに対してふむ、と納得するもよし、いや違う、と反論するもよし、なのだと思います。

東京国立近代美術館

 

2008年2月9日土曜日

『動物、動物たち』


 『動物、動物たち』という映画を見に行きました。フランス国立自然史博物館の大改修を追った、ニコラ・フィリベールという監督のドキュメンタリー作品です。過去2世紀に渡って集められてきた博物館の剥製コレクションを修復し、現代の研究をもとに新しい展示室を完成させるまでを描いています。改修は91年から93年まで行われました。新しい展示室では、動物たちが大行進をしているような構成になっており、進化の歴史がダイナミックな力強さで表されています。

 博物館学的な価値や博物館の裏舞台が見られるのを期待して行ったのですが、見終わって感じたのはもっと広く、一つの大きなプロジェクトが完成するまでのひとつひとつの仕事の尊さでした。カメラは、古い展示室を解体する作業員から、動物学の研究者、剥製師など、この大改修に携わるあらゆる人々の仕事を捉えます。展示室を解体するブルドーザーを動かしている人、資料の蝶を展翅している人、クレーンで剥製を降ろしている人、シマウマの剥製に彩色している人、展示室の照明を調節している人。みな共通して、目の前の自分の仕事に集中している真摯なまなざしが印象的でした。時には自分の領分を守るため、一歩も譲らない議論が起こったりもします。もしかしたら、自分が関わっている任務が、最終的にどんな形になったかを見ることがない人もいたかもしれません。しかし、これらここに集結したあらゆる仕事が積み上げられなければ、プロジェクトは完成しなかったのです。モザイク画のように、遠目から見れば一つの絵として認識されるけど、近づくと小さな破片でできていたことがわかる、というのと同じだと感じました。博物館についての映画を見たというより、仕事をするってこういうことなんだな、と自分の毎日を改めて振り返るような気持ちになりました。

 ちなみに私はフィリベール監督の作品を、他にも二つ見に行ったことがあります。精神科診療所を描いた『すべての些細な事柄』と、ルーブル美術館を描いた『パリ・ルーブル美術館の秘密』です。どの作品も、声高でも押し付けがましくもなく、遠くの方から愛情とユーモアの気持ちを持って見つめているような雰囲気があります。信頼できる視線を持つ映画監督だと、彼の作品を見るたびに思います。


2008年2月5日火曜日

現代美術への正しい道

 イギリスの新聞、The Guardianのウェブサイトで興味深い記事を発見しました。イギリスにはGCSEという中学卒業認定試験があるのですが、その中で美術・デザインの試験が波紋を呼んだというものです。裸の男がベッドの上の子供に近づいているシーンを写した作品が設問に使われたところ、学校側から「虐待を受けたことがある子供が見たら、良くない記憶を刺激してしまうかもしれない。」という指摘があったそうです。保護者からもクレームがきて、結局この試験は「リコール」されました。

 問題の写真は、トレイシー・モファットの『Heart Attack』という作品です。ぱっと見ると、この後何かが起こりそうで不穏な、不安を感じさせる写真です。しかし作者自身は、子供の性的虐待について描いたものではない、と言っています。

 記事では、現代美術のキュレーターが一連の問題に対して、「芸術をオブラートでくるんだり、過剰に単純化するのは、教育の理念から外れているのでは?」と苦言を呈しました。私もこのキュレーターの発言に共感しました。試験でどのように取り上げられていたかは分からないので、何ともいえないのですが、美術作品を読み解く力をつけるチャンスが失われたのは、残念に思います。とはいえ、生徒にとっては選択の余地がない試験というかたちでは、やっぱり受け止めきれない子供もいるでしょう。特に現代美術は、切り口や表現方法が多様になるにつれ、同時に過激さも増していくように感じます。作品ときちんと向き合うためには、そこまでの手順や状況を整えることも重要だと考えさせられるニュースでした。

Guardian Unlimited ”'Child abuse' exam paper recalled” 2008/01/20 から抜粋しました。


2008年2月3日日曜日

18歳以下はご遠慮ください

 アマゾンから"Seduced: art and sex from antiquity and now"という本が届きました。ロンドンのバービカンアートギャラリーで1/27まで開催していた展覧会カタログです。本当は見に行きたかったのだけど、思い立って行ける距離ではないので、カタログを購入した次第です。

 この展覧会は、タイトルからも伺えるように美術における性描写をテーマにしています。扱う内容上、18歳以下は入場できないということで、イギリスメディアのサイトで話題になっていました。カタログをめくりますと、作品はエトルリアの陶器から、日本の春画、現代作家の写真・映像まで、多岐に渡っています。平和な風景画ばかり描いた画家だと思っていたターナーが、エロティックなスケッチを残しているというのも、なかなかに驚きです。BBCの番組の一部が展覧会のサイトから見られるのですが、そこではキュレーターが「ポルノグラフィは単に刺激を与えるものですが、美術作品は人間同士の関係性を表すもっと複雑なもの。」というようなことを語っていました。

 さてこの本が届いた時、ちょうどイギリスの友人とSkypeでお喋りしていたので、早速聞いてみました。
「この展覧会、見に行った?」
「行ったよー。内容もだけど、展覧会を見にきてる人の反応がすごく面白かった。みんなすごく神妙な顔で見てるし、自分の感情を隠そうとしているようにも見えた。あからさまに嫌そうな顔をして映像作品のコーナーを途中で出て行く人もいたけど。」
とのことでした。うかつに感想を言ったら、他人から見られている自分が気になってしまいそう。何だか緊張感のある展覧会です。挑戦的な内容もさることながら、来館者の態度や行動をも揺さぶるテーマであるという意味からも、興味深いと思います。 

 うーん、カタログだけではやっぱり物足りないです。日本にも巡回しないかしら?


バービカンアートギャラリー "Seduced: art and sex from antiquity and now"

2008年2月1日金曜日

先生、どうします? 

 イギリスでPhDを取って日本に帰国した、大学院時代の友人と会いました。お土産に展覧会のパンフレットや絵はがきを頂きました!

 その中でも気になったものは、ロンドンのThe Photographer's Galleryで開催されていた『INSOMNIA』(~1/27)という展覧会のはがきです。セピアのふんわりした色調の写真ですが、セクシュアルな雰囲気が漂っています。裸の身体の一部を手で隠しているポーズや、ぶれた顔が、性別をあえて曖昧にしているようにも感じました。

 これはちょっと子供向けではなさそうだなー、と思ってウェブサイトを見てみると、学校のための観覧用ワークシートがダウンロードできるではないですか。これっていいのかしらん、と思ってよく読んでみると「性的な表現が含まれるので、16歳以下の生徒を引率する予定の先生は、事前に展覧会を見ておくことをお勧めします。」という注意が書かれていました。ここはどうやら先生にゆだねられているようです。

 大人向けといって闇雲に生徒から遠ざけるのではなく、先生の判断で決められる、という対応はとても良いと思いました。確かにこういった内容を学校の教育に取り入れるのは、なかなか難しいことかもしれません。だけど、美術表現から性の多様性とか、自分と他者との関係について考えるきっかけが生まれることもあると、私は思います。美術館や博物館を生かした教育の良さって、そういうところにあるのではないでしょうか?

The Photographer's Gallery "INSOMNIA"