2009年10月20日火曜日

トらやんに会いに


   

 関西へ行く機会がありました。帰りの新幹線に乗るまでの時間に、ヤノベケンジ氏のプロジェクト、「トらやんの大冒険」を見て回りました。クラシックな大阪市役所に展示されたジャイアント・トらやんを見て、京阪なにわ橋駅アートエリアB1で行われたヤノベ氏のトークをちらりと聞いてきました。ちょびヒゲおっさんの腹話術人形が放射線探知服アトムスーツを着た「なにわのトらやん」。でっかいトらやんが、市役所のエントランスホールに居り、来る人を見下ろしています。振り返ると、中二階の手すりにちっこいトらやんが手を振っています。川べりを歩いてアートエリアB1にたどり着くと、さらに沢山のトらやんが!地下鉄のエスカレーターの手前に作られたスペースで、スライドを背に語るヤノベ氏は、「ラッキードラゴン」と名付けられた作品=船が大阪の水辺をぬいながら水を吹き上げたり、目を光らせたりする様子を解説しています。

 相変わらず、アートの意義やらについてもやもやしていた私は、トらやんを見上げたり、ヤノベ氏の熱いトークを聞きながら「飢餓の子どもに栄養を与えたり、紛争を解決したりするでもない、何か目に見える『成果』が表れる訳でもないアートの効用とは何だろうなあ。」と考えを巡らせていました。ゲストでぎっしりのトーク会場を遠巻きに眺めつつ、何かを形にして、人前に差し出してみせるヤノベ氏のガッツというか、情熱のようなものをぼんやりと感じつつ思ったのは、人の想像力を通じて何かよきものを願ったり、待ちわびたりする訓練、あるいは追体験をさせてくれることが、アートのなせる技なのかも、ということです。まだちょっとうまく言葉にできません。アートを巡る私の大冒険もまだまだ続きます。


2009年10月4日日曜日

ようこそGustavo!




 LAフィルの音楽監督に就任したエル・システマ出身の指揮者、Gustavo Dudamelのステージが昨日ライブ配信されたのを見逃してしまいました。何日か前にLAフィルのウェブサイトを見ていてチェックしていたのですが、すっかり忘れていました。LAフィルのウェブサイトはDudamel一色で、『君も指揮に挑戦!Gustavoみたいにできるかな?』なんていうゲームまであって、アイドル並の扱いにビックリしつつ、あちこちクリックして眺めていたところ、彼がLAヤングオーケストラを教えている映像を発見しました。小学生ぐらいの子どもたちのオーケストラで、よれよれな音もまた微笑ましいのですが、Dudamelの情熱的な言葉と身振り手振りに引っ張られて、みるみる自信のある音に変化していく様子にこちらも引き込まれました。「これでいいのかなあ・・・」という顔をしながら叩いていたティンパニの男の子が、自分の出したクリアな音にはっとする表情が印象的でした。
 
 こんな風に、音楽でも、美術でも、ダンスでも、体でふっと納得する、というか腑に落ちる瞬間ってあるよね、と私も自分の体験を振り返ってそう感じました。演奏したり、創作したりするだけでなく、見たり、聞いたりする立場にもそういう瞬間は訪れます。その体験の積み重ねによって、私はアートを大切なもの、貴重なもの、と思うようになったのではないかと思います。ここのところ、芸術の意義や奥深さを説明するにはどうしたらいいのか、ということをあれこれと悩みながら考えていたのですが、2分程の短い映像に、何かヒントが隠されているような思いがしました。



2009年9月21日月曜日

神話と遊ぶ

 

 一昨日、東京オペラシティギャラリーで「鴻池朋子展 インタートラベラー神話と遊ぶ人」を観ました。2日経ってもまだじわじわ「効いてくる」展覧会でした。

 地球の中心に向かって行く、という設定の展示になっており、いくつかに区切られたスペースの入り口にはその場所の「深度」が表示されています。地球の成り立ち?世界の成り立ち?とても壮大なイメージが感じられます。物語に沿っている訳ではありませんが、個人の原初的な想像力が呼び起こされるような体験でした。小さい頃、宇宙の果ての先はどうなっているのか、とか、産まれる前に私の意識はどこにあったのか、などと考えて吸い込まれそうになった、怖いようなドキドキするような記憶が思い出されるようでした。

 展示室を出たところに、「赤ん坊」という作品を展示するまでの映像が見られます。(ウェブサイトでも観られるようです。)これもまた、何かを作り出す時に現れる、うねりような力強さがあり目が離せませんでした。




2009年8月20日木曜日

ロンドンの夏休み



 夏の休暇、ロンドンへ行ってきました。何も計画せずに取りあえずロンドンへ、と向かった夏休みでしたが、唯一行きたいと思っていたのが、Roundhouseという劇場に設置された、ミュージシャンのデイヴィド・バーンによる"Playing the building"lというインスタレーションでした。鍵盤を叩くと、オルガンの背面から劇場内に張り巡らされたチューブを伝って、金属を叩くようなノッカーの音、フルートのような音、エンジン音のような振動音が奏でられる作品です。無機質ながら不思議な静謐感を残す印象的な作品でした。鍵盤を叩く人、音がなる方向を確かめようとする人、その場に集った人たちの一体感のある空間に圧倒される思いでした。
 
 しかし、私が最も心を奪われたのは、会場を出てすぐに聞こえた様々な音でした。車のエンジン音、クラクションの音、どこかで工事をしている音、Plyaing the building を体験した後、どれもが意味のある音楽のように聞こえたのです。日常に溢れる音さえも、何か特別な響きに聞こえるような体験をさせれくれた、この作品の包容力に感じ入ったひとときでした。


2009年7月20日月曜日

『なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか』

 一ヶ月程前、この本を読みました。Chim↑Pomというアーティスト集団が飛行機雲で広島の空に「ピカッ」という文字を描き、市民の不快感を呼び、被爆者団体を前に謝罪会見を行った、という顛末を書いたものです。この本に寄稿している評論家やアーティストの文章もやや興奮気味で的外れな印象がありましたし、大慌てで世に出しました、という感が否めない本ではありました。

 とはいえ、この本により「事件」の一連を垣間みることができました。しかしながら一層どうにもこうにも煮え切らない思いが私の中に広がったのも確かです。この騒動そのものに対してというより、それぞれの立場の反応が不思議、と思ったのが正直なところです。どうやら彼らの個展を開催する予定だった美術館の担当学芸員も「やるならゲリラ的にするしかない」というスタンスであり、大騒ぎになって初めてアーティストたちも「いや、あれは平和への願いを込めていて云々。」といった釈明をしたらしいです。
 
 私自身は「ピカッ」とさせることに対してはそれほど大きな驚きも感想もなかったのですが、ヒロシマという表象のあまりの大きさに、茫漠とした戸惑いを感じました。というのも、この「ピカッ」の直後に中国のアーティスト蔡國強氏が、原爆ドームの上に黒い花火を打ち上げる、というパフォーマンス(もちろん世界の平和を願って、の意味を込め)を行っているのです。
 
 この経緯を読んで、蔡國強氏は受け入れられ、彼らは受け入れられなかったのは、何を表現するかという軸を他人を説得できるレベルにまで強固にできなかったChim↑Pomと学芸員の未熟さが原因だったんだろうな、と思いました。日本、特に広島や長崎における被爆体験の持つ力の大きさと特殊性、そしてそこに無邪気にも足を踏み入れてしまった若いアーティストによって、表現することと受け入れられること、について再考させられる機会でもありました。


「なぜ広島の空をピカッとさせてはいけないのか」
編:Chim↑Pom・阿部謙一
出版社:河出書房新社


2009年5月7日木曜日

メイプルソープとコレクター

 渋谷の小さな映画館で『メイプルソープとコレクター』という映画を観ました。よく下調べもせずに、メイプルソープについてのドキュメンタリーだと思って行ったのですが、公私ともに写真家メープルソープのパートナーであったコレクターについての映画でした。

 彼の名はサム・ワグスタッフ。アメリカの上流階級に生まれ、現代アートの学芸員として成功し、写真のコレクターとしてひとつの価値観を作り上げた人物です。個人のドキュメンタリー映画としてはやや茫洋としており、あまりおすすめしませんが、とかくセンセーショナルな写真家として人々の記憶に残るメープルソープの傍らで、ワグスタッフが大きな影響を与えていた(作品へも、そして金銭的にも)ことを初めて知ったのは驚きでした。彼やメープルソープを知る人々が次々にスクリーンに現れるのですが「ロバートはサムのお金にしか興味がなかったのよ。」などと言う人もおり、華やかなアート界の住人たちの寒々しい一面もまた印象的でした。晩年は写真のみならず銀製品の蒐集も行っていたそうですが、彼は全てを死の直前、ゲティ財団に売却しました。それらはゲティミュージアムでも公開されているようです。いつか、彼の美意識を追体験しに訪れてみたいと思っています。

『メープルソープとコレクター』公式サイト


2009年5月6日水曜日

ツェ・スーメイ展

 水戸芸術館まで、「ツェ・スーメイ」展を観に行きました。山に対峙してチェロを弾いている後ろ姿を映した展覧会のポスターを観た時から、これはぜひとも観に行かねば!と思った展覧会です。
 ツェ・スーメイはイギリス人ピアニストの母と、中国人バイオリニストの間に生まれたルクセンブルグ出身のアーティストです。職場の人たちと展覧会のチラシに載っていた作家自身の写真を見て「彼女はこの世のものとは思えないような、妖精のような雰囲気だね。」と話したのですが、まさに作品も神話に出てくる精霊のような趣のあるものでした。身の回りの細々した事柄を顕微鏡で見るように、一つひとつの事象をミクロな世界に突き詰めて、物語を紡ぐような、個人的でありつつ普遍的なものを感じました。私が気に入った作品は、葉が落ちた木々に寄生している宿り木を音符に見立てた映像作品『ヤドリギ楽譜』と、猫の肖像写真と、猫が鳴らす喉の音を録音した『不眠症の治療』(このタイトルにニヤリとしてしまいました。)です。

 展覧会を見ながら、何故か別の現代美術作家、マシュー・バーニーのことを思い出しました。作風や雰囲気は全く違うのですが、個人の想像力によって生み出された壮大な世界を、皆の目に見える形にする、という点で、共通するものを感じました。ツェ・スーメイが精霊だとすれば、マシュー・バーニーは半身半獣のケンタウルスのような、同じ世界に生きる想像上のいきものとでも言えるかもしれません。

 ゴールデンウィークの終わりにとても心満たされる展覧会を見た思いがしました。

水戸芸術館「ツェ・スーメイ」展ウェブサイト


2009年4月12日日曜日

台湾現代芸術事情

 大学院時代の友人を訪ねて、台北に行ってきました。彼女に案内してもらい、台北市内の現代アートスポットに行ってきましたのでご紹介します。

 まずはMOCA Taipei。ここは日本の植民地時代に小学校だった建物で、その後市役所として使われ、現代美術館へと改装された場所です。現在行われている企画展は「SPECTACLE-TO EACH HIS OWN」(〜4/12)。今活躍する台湾、中国の若いアーティストの作品が集められています。内容に入る前に、チケットについて少し。厚紙で作ってあり、切り抜いて紙飛行機が作れるようになっています。この美術館では毎回このようなお土産にもって帰れるチケットを作っているそうです。展覧会の構成は映像作品が多く、後半に絵画や立体の作品が集まっていました。小さい部屋に分かれた一階部分にそれぞれ映像作品を展示しており、建物の特徴に合わせたところもあるように感じました
       展覧会チケット          コンパクトサイズの図録

 そして夕食後連れて行ってもらったのが、IT ParkとVT Artsalon。IT Parkは、80年代終わりにアーティスト達がお金を出し合って場所を借り、自分たちの展示スペースを作ったのが始まりだそうです。アーティストの情報交換の場としても機能してきました。台北市文化局や国家芸術文化基金の支援と、写真スタジオの貸し出しなどで運営しているそうです。IT Parkの数件先の地下にあるVT Artsalonは展示スペースとクラブが併設されたような場所で、IT Parkよりちょっと若い世代の空間です。友人によると、タバコ会社やアルコール飲料会社と組んでプロモーションの場としても機能しているようです。両方ともアート関係者が集い、人脈を広げたり情報を交換したりするサロンのような趣がありました。

 と、盛りだくさんの台北現代美術探訪でしたが、熱い台湾のアートパワーを体感した半日でした。台北に行かれる機会があれば皆さまもぜひ!

Special thanks to Chi-Ping!



2009年4月5日日曜日

いいデザイン、正しいデザイン

 東京都美術館の「生活と芸術ーアーツ&クラフツ展」を見に行きました。ちょうど桜が満開で、上野は今まで見たことがない程の人出でした。さて、この展覧会はイギリスのヴィクトリア&アルバート美術館との共同企画で、イギリス、ヨーロッパ、日本という3つの括りでアーツ&クラフツ運動について展示しています。私が初めてアーツ&クラフツ運動に触れたのは、2000年、今はもうない伊勢丹美術館で「マッキントッシュとグラスゴー・スタイル」という展覧会においてでした。直線的なデザインに草花や人間など有機的な形が組合わさった作品は、私の印象に深く残りました。今回もアーツ&クラフツ運動の父と呼ばれるウィリアム・モリスを始め、マッキントッシュはもちろん、モダンな銀器をデザインしたドレッサーの作品も展示されていました。さらに、この運動がヨーロッパへ広がり、最後のコーナーでは柳宗悦が率いた民藝運動を日本のアーツ&クラフツと捉えた展示構成となっていました。場所を越えて一つの輪がつながったような、とてもよい構成の展覧会でした。

 帰り道、お花見客の合間を縫って戻る途中、別の美術館に「アーツ&クラフツ展」の別のチラシがおかれていました。「Have you ever thought of correct design as well as good design? いいデザインだけでなく、正しいデザインについて考えてみたことがあるだろうか」という文字が並び、裏にはプロダクトデザイナーの深澤直人氏のことばが記されていました。正しいデザイン、私は考えたことがありませんでした。いいデザインについては好き嫌いはあるにしてもはっきりと言えますが、「これは正しいデザインだね。」というのは何だか不思議な響きです。しかし、これがアーツ&クラフツ運動の本質を表すものなのだなあ、ということがじんわり感じられました。深澤氏の文章によれば「社会の不正義を正す万能薬として、正直で充実した生活を目指す哲学の基礎となる」アーツとクラフツのあり方が19世紀末のイギリスで始まり、形や素材が変わりながらもその哲学が共有されてきたことに、ぐっと深いものを感じました。

「アーツ&クラフツ展」ウェブサイト


2009年2月23日月曜日

初心に戻って

 銀座のメゾンエルメスの8階へ、Janet CardiffとGeorge Bures Millerの展覧会のオープニングに行きました。6年前、2003年にロンドンのホワイトチャペルギャラリーでみて、修論の事例で取り上げた展覧会の作家が来るということで、とても楽しみに出かけました。作品はその時と同じ『40声のモテット』が来ていました。会場をぐるりと囲んだちょうど大人の頭の高さにあるスピーカーから聖歌隊の合唱が聞こえるというものです。

 私は修論を書くにあたって、美術作品と美術館の場所の関係、美術館空間での来館者体験の特別さとは何か、について書きたくていろんな展覧会を見に行きました。この作品は、会場に入った途端に人々の振る舞いが変わるような面白い作用があると感じ、事例に取り上げました。宗教音楽という厳かな音と美術館の空間、そしてその場に入った途端に人々がスピーカーに耳を傾け、中央のベンチに座る様子はまるで振り付けられたような印象もあり、しばらくその場にいて人々の動きや表情を観察したのを覚えています。それ以来、美術館空間がもつ特別さ、人々の振る舞いを規定する力に興味を持ちつづけてきました。この課題についてはまだまだ答えは出ませんが、久々に初心に戻るような清々しい思いを持った夜だったのでした。

2009年2月21日土曜日

子どもたちの笑顔の先に? 〜岩井俊雄の特別授業〜

 NHK教育のETV特集『目覚めよ、身体、感覚の宇宙〜メディアアーティスト岩井俊雄の特別授業』(2月15日22:00〜23:00)を見ました。こちらでも書きましたが、TENORI-ONの作者であり、私が最も敬愛するアーティストの一人である、岩井俊雄氏が小学校で授業を行うという番組です。私は以前から、二人のお嬢さんとおもちゃづくりをしている岩井氏の日常を彼のブログで拝見しており、家庭を飛び出して、学校教育の現場で彼の創造性がどのように発揮されるのかとても楽しみにしていました。

 学校から依頼されて2週間で6学年に授業を行うことになった岩井氏。先生たちへのプレゼン、事態を把握しきれない先生たちにも粘り強く思いを伝え、図工室や音楽室でおもしろそうなものを探し、授業内容を練り、ちょっとした躓きもあり、そして・・・と番組は進んでいきました。それを見ながら私は「この番組の落としどころは、どこになるのだろう?『無事授業が終わってめでたしめでたし』ということになるのかしら・・・?」と妙な気持ちになってきました。果たして番組は、岩井氏がナビゲートする世界に全身で引き込まれ目を輝かせる子どもたち、そしてほっと安堵と達成感を見せる岩井氏、で終わりました。その後、私の妙な気持ちは2時間程続きました。

 その気持ちとは、「確かに子どもたちは楽しかった。先生たちも保護者たちも一緒に楽しんでいた。岩井氏は汗だくで頑張っていた。そして彼のクリエイティビティは余すところなく発揮されていた。でも、それでよかったのかなあ?」というものでした。私が一番気になったのは(TV番組というバイアスはかかっているにせよ)先生たちが及び腰の中、岩井氏が学校教育の現場で一人奮闘している「無理な感じ」です。私も無理な要求をしていると自覚していますが、岩井俊雄というアーティストが教育現場に飛び込んだのに、彼がそれを一手に背負ってしまうのはもったいないと感じたのです。

 たまたまラッキーなことに実現した「特別授業」ではなく、学校教育に何が必要だからこの授業をするのか、子どもたちはこの授業を受けて将来的にどうなってほしいのか(多分、みんな彼のようなアーティストになってほしい、ということではないはずです)、という広いところまで先生たちも含めてミッションを構築して、岩井氏にそのプロジェクトに入ってもらうという形になれば、別のジャンルのプロフェッショナルたちにも同じように、子どもたちの目を輝かせる授業を行ってもらうことが可能になるのではないかと思います。そこに必要なのは、プロデューサーのような存在なのでしょうか、それともマネジメントやコンサルティングのようなものでしょうか?私にはまだはっきりした答えは見つかっていません。

 アートはアートの世界だけで完結すべきではない、社会に何かを投げかけてこそアートの力が発揮されるはず、と最近考えている私には、この番組はかなりヘビーな課題が満載でした。



2009年2月16日月曜日

貧困・教育・芸術

 近考えていることを少し。先日、『子供の貧困ー日本の不公平を考える』という本を読みました。昨今の世界的な金融危機と経済悪化の中、教育や次世代育成にどんな影響が波及するのだろうか、と思っていた時に見つけたました。OECDの調査データをもとに、日本に見られる子供の貧困問題について分析しているものです。調査によると、日本の相対的貧困率はアメリカに次いで2位なのだそうです。にわかに信じ難い数字ですが、そこには「格差」どころではなく「貧困」の問題として取り組まなければならない現実があるということです。本書では、定量的なデータを用い、親の貧困が子供の貧困へと連鎖し、子どもを教育の機会からも遠ざけてしまうという問題を大変鋭く読み解いています。

 中でも私が興味を持ったのは、経済的理由で進学できない、という問題だけでなく「努力」「意識」「希望」に格差を生じている、という点でした。安心感を持って子供時代を過ごすことが、その後の人生に大きな影響を与えることに気づかされたのです。貧困問題は、間接的にかつ長期的に、自尊心を持つことや、他者を理解しようという思い、自分の力を試そうとする原動力にじわじわと作用するのものなのではないかと思いました。

 そこでふと思い出したのが、ベネズエラのエル・システマという音楽教育制度です。これは1975年指揮者のJose Antonio Abreuによって設立されたもので、クラシック音楽の教育を通じて、貧困層の子どもたちが麻薬や犯罪に染まるのを防ぎ、彼らの可能性を育て地域社会にポジティブな影響を及ぼすことを目指しています。昨年の12月にエル・システマのオーケストラである、シモン・ボリバル・ユース・オーケストラ(SBYO)が来日公演をしたことをご存知の方もあるかもしれません。着目すべきは、エル・システマが30年以上活動を続け、かつ社会にもインパクトを与えているという点です。エル・システマ出身の指揮者、Gustavo Dudamelは2007年にSBYOを率いてロンドン公演を行ったときのインタビューで、「音楽のお陰で、犯罪や麻薬といった悪いものから自分を遠ざけることが出来た」と語っています。貧困と教育という二つの課題に対してこれだけ時間をかけて取り組み、実際に子どもたちに自信を与え、可能性に向き合える機会を与えたという点に圧倒されました。日本でこういった取り組みがそのまま有効かどうかは別の問題ですが、一つの取り組みとして力のあるものだと感じます。

 さてこの次私が考えるべきことは、博物館や美術館は貧困と教育の問題にどんなアプローチが与えることができるか、ということです。博物館や美術館は、子どもたちが努力し、希望を持つ力、そして社会を変えていこうという意識を獲得する場となりうるのでしょうか。できるとすれば、それはどんな形で実現するのでしょうか。経済危機は、こういった課題を考えるきっかけを与えてくれたといえるかもしれません。


『子どもの貧困ー日本の不公平を考える』
阿部彩 著
出版社:岩波書店
エル・システマ 英語ウェブサイト


2009年1月24日土曜日

熱狂現代美術

 やっと『Seven Days in the Art World』を読み終わりました。いやはや、生き馬の目を抜くとはこういうことかと思わされる世界が描かれていました。他人に出し抜かれないよう、そして常に優位に立てるように振る舞う現代アート界の住人たちの記録、という趣の本でした。

 何よりも面白かったのは、実在する登場人物たちの描写です。着ている服、アクセサリー、立ち振る舞い、表情まで詳細に描かれており、それが一層この世界の熱に浮かされたような現状が目の前に広がるような気持ちになりました。著者であるSarah Thorntonが有名コレクターとアートフェアをまわっていた時、とあるギャラリストがコレクターに向かって「彼女はあなたの新しいコレクション?」と耳打ちするところを聞いてしまった場面や、アートマーケットを動かす力を持つアート雑誌オーナーのスノビッシュで回りくどい話し方、などなど、あちこち突撃取材を敢行する著者のちょっと毒気が効いた筆遣いに苦笑させられたりもしました。

 私が勉強していた博物館学部でも、現代アートや美術館の現状について取り上げることもありましたし、現代アート志向の人もいたので、ここに書かれているのは全く知らない世界ともいえませんでした。しかし牧歌的とも家庭的ともいえたあの学生生活とはあまりにもかけ離れた世界に、しばし呆然とする一冊だったのでした。

2009年1月11日日曜日

年末インド、そして年明けブラジル

 森美術館の企画展『チャロー!インディア』と東京都現代美術館の企画展『ネオ・トロピカリア』とについて少し。両展覧会は「経済成長著しいBRICsの二大新興国、インドとブラジル。二つの大国の現代アートを紹介する展覧会の開催を記念して、森美術館と東京都現代美術館では相互割引を実施いたします。」とのこと(森美術館ウェブサイトより)。今日、『ネオ・トロピカリア』展を観に行って初めて知りました。非常に個人的な感想なのですが、実は年末に『チャロー!インディア』を観に行った時、面白いのかつまらないかよく分からず、それ以前に自分が好きか嫌いかも判断出来なかったことでとても記憶に残っている展覧会でした。そして今日、『ネオ・トロピカリア』を観て「あー!とても素敵な展覧会だったな!」と充実感いっぱいで帰ってきました。短期間にこんな極端な気持ちになる展覧会がこんな連携を取っていることに、不思議な縁を感じました。

 そもそも、展覧会で「好きか嫌いか分からない」と思うことはあまりない体験でしたので、年末年始にこの気持ちを消化したいと思っていましたが、未だ答えが出ないままだったのです。「結局私たち、インドの現代美術に興味がないってこと?」と一緒に観に行った友人と話したのですが、それでは何か言い足りない気がします。なんと言うか、共感ポイントの少ない展覧会だったなあ、というぼんやりもやもやした気分でした。一方『ネオ・トロピカリア』ですが、特に私はブラジルに興味はなかったものの、「この気持ち、分かるよー。」と思える作品が多かったです。例えば、野菜やパンを小さく切って重ねたり、並べたりして写真を撮ったり、アリにキラキラの紙を運ばせた映像作品を作るリヴァーニ・ノイエンシュヴァンダー、町並みの外壁をカラフルな色に塗り分けたルイ・オオタケなど。自分の趣味が合ったか、合わなかったかの差、と言われればそれまでなのかもしれませんが、なんと言っていいのか分からない展覧会と、誰かに話したくてたまらない展覧会の違いをうまく説明できれば、展覧会体験を新たな言葉で語れそうな気がしました。

森美術館『チャロー!インディア』ウェブサイト

東京都現代美術館『ネオ・トロピカリア』ウェブサイト

2009年1月3日土曜日

市民を見くびるな

 『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』という本を読みました。大英博物館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、シカゴ美術館、J・ポール・ゲティ美術館、MoMA、メトロポリタン美術館といった欧米の主要美術館館長、館長経験者が行ったシンポジウムをまとめたものです。「市民の信託」というサブタイトルに惹かれて手に取ったのですが、原題では「Public Trust」と表現しています。英語「Public」と日本語の「市民」という言葉の背景にある重みというか意味合いに違いがあるのではないかと感じましたが、今回は各氏の議論に焦点を当ててみたいと思います。

 それぞれの議論はやや美術至上主義的な、美術史界のエリート大集合といった雰囲気も感じられましたが、現場を厳しく見てきた経験によるとても示唆に富んだものでした。私が普段何気なくしかし同時にもやもやとした違和感も持っていた「美術館は誰のものか」という疑問について言葉を与えてくれる本でした。

 特にNYのメトロポリタン美術館館長、フィリップ・デ・モンテベッロ氏の講演はとても私の心に響きました。彼は前半で、美術館が市民の信託を得るために真の学究の証である純粋さ、謙虚さを示す「威信」、そして政治的意図や市場原理で歪められることのない「オーセンシティ(真正さ、本物であること)」が必要であると語っています。これらのキーワードに基づき、現在の美術館が置かれている状況をこう語っています。美術館は規模が大きくなるにつれ運営が困難になり、資金を確保するというプレッシャーのために美術館の方針を本来的な使命ではなく、市場原理に委ねている。さらに来館者が美術館の新たな焦点となり、過剰なまでの催事と展覧会が行われている。ここで彼は、美術館が来館者に焦点を置くことで奇妙なパラドックスが生まれる、と指摘しています。「芸術作品ではなく来館者を中心に据えると、来館者がよりよい奉仕を受けることにはならず、(中略)美術館が来館者の興味を引きつけ、喜ばせようとすると、必然的におもねる姿勢が生まれるでしょう。つまり、来館者の数が重要なのであれば、その質が問われることはないのです。(中略)あらかじめ集客を見込める展覧会を際限なく繰り返すならば、人々の視野が十分に広がることはありません。そうなれば、人々は美術館に対して、より多くを求めようとはしなくなるでしょう。」(pp.214-217)

 これはなかなか強烈な批判です。まさに私がうっすらと嫌悪感を抱くメガ展覧会の一面を表していると思いました。来館者が沢山入ることによって成功が量られ、その内実、展示室の中は込み合うばかりで落ち着いて鑑賞することが出来ない、という展覧会を私たちは少なからず体験しています。センセーショナルで派手な展覧会に対する苛立ちや物足りなさは、来館者に対するどこか不誠実な振る舞いによるものだと私は感じていました。デ・モンテベッロ氏はメトロポリタン美術館館長という経験から、集客をねらった企画と、真剣な目的を持って行われた展覧会の違いを市民は十分承知している、と力説しています。これは市民の反応に過敏になれ、ということではなく、美術館が市民に迎合していないという意識、信頼に基づいた評価を市民から得られるかどうかが問題だと言っています。私たちは、メガ展覧会に偏重することで彼らが言うところの市民と美術館との信頼関係を、信じようとしてこなかったと言えるのではないでしょうか。

 他の6人の議論も切り口は違うものの、美術館が市民に対して果たすべき責任、つまり娯楽産業と競合して安易な楽しみを提供するのではなく、理解に時間はかかっても美術と向き合うことには価値がある、ということを伝えるべきという主張をしており、とても勇気づけられる一冊でした。さて、私にとって次の課題は日本の中での「市民=public」とは何か、について掘り下げて考えることになりそうです。

『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』
編:ジェイムズ・クノー

出版社:ブリュッケ