2008年8月31日日曜日

暗闇での対話

 先週、学士会館で行われた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました。完全な暗闇の中を、目の不自由な方のアテンドにより体験するワークショップ形式の展覧会です。私は2004年に一度参加しており、4年経って何か感じ方が変わっているかどうか確かめてみたいと思い、もう一度参加しました。

 目の前の自分の手さえも見えない完全な闇の中で、アテンドの声と白杖だけを頼りに、7~8人ぐらいのグループで草が敷き詰められた場所を歩いたり、丸太橋や吊り橋を渡ったり、バーで飲み物を飲んだりします。初めは怖くて一歩踏み出すのも躊躇するのですが、だんだん慣れてくると声が聞こえる方向や人の近さが分かってきます。前回参加した時、よく覚えているのは、グループからはぐれそうになって「あれ、どっち?」と思わず声を上げたら、「こっちですよ」とアテンドの人が「まるで見えているかのように」私の腕を取って方向を教えてくれた場面です。それはもう、衝撃的な体験としか言いようがなく、同時に、自分の知りえない感覚で世界を感じて生きている人がいるということに気がつかされた体験でもありました。

 さて、今回はどうだったかというと、意外に前回の感じを身体で覚えていてもっと大胆に動けたのが驚きでした。プログラム自体もあまり変わりなく、そうそう、こんな感じだったな、と前回の記憶をたどるような体験でした。そしてプログラムが終了すると、突然普段の明るさに戻ると目に刺激が強すぎるので薄暗い空間でしばらく参加者とアテンドの方とお話しする時間がありました。(前回は明るいところに出てから、お話しした記憶があります。)参加者たちは衝撃も覚めやらず、アテンドの方にしきりにどうして暗闇で分かるのですか?とか、すごいですね、といった感想を話すのですが、私はそこでかすかに違和感を感じました。私が二回目の参加だったから冷静に居たからかもしれませんが、視覚が不自由な人たちは、目が見える私たちとは違う感覚を使って生活している訳で、それって凄いとか信じられないとかそういうものではないと思ったのです。反対に私は、自分の視覚が機能しない暗闇の中で、アテンドの方に手を引かれた時、とても孤独な感じがしたことを思い出したのです。自分の知らない感覚世界があって、そのなかで生きる人が居る、ことがどんなことか知らなかったということが一番衝撃でした。

 それは、想像力を持って相手のことを考えましょう、とか、他者の気持ちを汲み取りましょうとか、そういう物言いがとても嘘くさく感じる程の思いだったのです。視覚が不自由な人とそうでない人との間だけではありません。病気の人と健康な人、子供と大人、異性愛者と同性愛者、男性と女性、外国人と日本人、などなど、それぞれ違っていることは知っていても、自分が生きている感覚や日常がみんな同じではない、ことまで思いを馳せ、「ダイアログ=対話」する機会がどれほどあるだろうかと思ったのです。
 博物館とはちょっと離れた話題ではありましたが、博物館体験について考える時、この感覚がいつか役に立つような気がします。

2008年8月18日月曜日

ただいま製作中

 週末友人と、森美術館の『アネット・メサジェ』展を見に行きました。1970年代から活躍しているフランス人アーティストの展覧会です。バラバラにしたぬいぐるみで構成された作品、彩色した写真、コラージュなど、様々な手法の作品で構成されていました。

 網を展示室に配置した作品や、天井から床まで壁面にクレヨンのようなもので文字が書いてある作品を見て私たちは、「これって、本人が来て展示するのかな。巡回する時どうするんだろうね。」など、作品がどう展示されたかの方が気になりつつ展示室を回りました。すると展示室の最後、丁度ワークショップを行っているスペースの壁面に、展示風景の映像が流れていました。そこにはメサジェご本人や学芸員だけでなく、展示業者を始め展示作業を手伝う人々の姿が映っていました。先ほど気になった壁面の作品は、メサジェの手ほどき(?)を受けた多くのスタッフたちが脚立に乗ったり、床に腹這いになったりしながら文字を書いている様子が紹介されていました。私たちは「こんな風に作っていたのか!」とか「やっぱりこの部分は本人が決めるのね」とまるで謎解きをするかのように作品の展示風景に見入ってしまいました。

 ふと、こういう映像が展覧会でもっと見られたらいいのに、と私は思いました。来館者は、普段完成された展覧会しか目にすることが出来ません。でもそこにたどり着くまでには、展示の構成を決め、展示室をデザインし、作品を運び込み、開封し、しかるべき場所に展示するという長い行程があります。いつもはしんと静かな展示室に、実は生々しく活気に満ちた「ドラマ」があるなんて、とても興味深いじゃありませんか!