2017年6月3日土曜日

式辞を読む

4月に大学に入学された皆さんにおかれましては、5月病を克服し夏休みの予定も決まっている頃でしょうか。一方、私は6月になってもまだ、3つの大学の式辞の読み応えについて考えています。

ひとつは関西学院大学社会学部学部長の「嫌がらせのような式辞」。あるバンドのフレーズを引用したもので「関学に入ってウェイウェイ言っても就職はなんとかならないよ、ウェイウェイしてSNS炎上させちゃダメだよ、プライド高いだけではダメだよ、4年後はすみやかに大学生ではなくなってね」という内容でした。このウェイウェイ加減は、今でも実はネタなのでは?と疑ってもいます。

もうひとつは京都市立芸術大学学長の式辞。私が注目したのは、「人とつながること、協力すること、ここにないものを想像すること、別の社会のあり方を構想すること、アートとはその技である。『生き延びるための技』の基本を学ぶ場が芸術大学である。創作は社会の困難にも関わり〈わたし〉の問題はかならず〈社会〉の問題につながる。それを知ることで表現も深まり、一人ひとりの問いが多くの人を揺さぶるものとなる」というところ。

そして情報科学芸術大学院大学(IAMAS)学長の式辞。「IAMASでの制作や研究は『死者と未来の子どもたち』に見せたいものであるか考え、『死者と未来の子どもたち』に恥じないでいられるように必死であってほしい。あなたは社会で平然と使われる『人材』である以前に、死者たちの願いや無念に耳を傾け次の社会を築く一人の人間、人格である。みなさんが学ぶべきことは『人間世界』が存続していくための『アート』、人間が繁殖するだけでなく人間らしく生きるための『技法』です」。

ウェイウェイしないでサクッと就職するための大学に行くのもひとつのあり方です。しかし、京都市立芸大とIAMASの式辞は「善い人間」になることを促している点に誠実さを感じました。そして思い出したのは、IAMASで学んだメディアアーティストの真鍋大度が子ども向けのWSで「テクノロジーを正しく使ってほしい」言っていたことです。その時はアートに「正しい」という言葉をあてるのが不思議でしたが、今は腑に落ちますよね。私が区別したいのは式辞に格調があるとかないとかではなく、視座と見通しの広さです。