2009年1月24日土曜日

熱狂現代美術

 やっと『Seven Days in the Art World』を読み終わりました。いやはや、生き馬の目を抜くとはこういうことかと思わされる世界が描かれていました。他人に出し抜かれないよう、そして常に優位に立てるように振る舞う現代アート界の住人たちの記録、という趣の本でした。

 何よりも面白かったのは、実在する登場人物たちの描写です。着ている服、アクセサリー、立ち振る舞い、表情まで詳細に描かれており、それが一層この世界の熱に浮かされたような現状が目の前に広がるような気持ちになりました。著者であるSarah Thorntonが有名コレクターとアートフェアをまわっていた時、とあるギャラリストがコレクターに向かって「彼女はあなたの新しいコレクション?」と耳打ちするところを聞いてしまった場面や、アートマーケットを動かす力を持つアート雑誌オーナーのスノビッシュで回りくどい話し方、などなど、あちこち突撃取材を敢行する著者のちょっと毒気が効いた筆遣いに苦笑させられたりもしました。

 私が勉強していた博物館学部でも、現代アートや美術館の現状について取り上げることもありましたし、現代アート志向の人もいたので、ここに書かれているのは全く知らない世界ともいえませんでした。しかし牧歌的とも家庭的ともいえたあの学生生活とはあまりにもかけ離れた世界に、しばし呆然とする一冊だったのでした。

2009年1月11日日曜日

年末インド、そして年明けブラジル

 森美術館の企画展『チャロー!インディア』と東京都現代美術館の企画展『ネオ・トロピカリア』とについて少し。両展覧会は「経済成長著しいBRICsの二大新興国、インドとブラジル。二つの大国の現代アートを紹介する展覧会の開催を記念して、森美術館と東京都現代美術館では相互割引を実施いたします。」とのこと(森美術館ウェブサイトより)。今日、『ネオ・トロピカリア』展を観に行って初めて知りました。非常に個人的な感想なのですが、実は年末に『チャロー!インディア』を観に行った時、面白いのかつまらないかよく分からず、それ以前に自分が好きか嫌いかも判断出来なかったことでとても記憶に残っている展覧会でした。そして今日、『ネオ・トロピカリア』を観て「あー!とても素敵な展覧会だったな!」と充実感いっぱいで帰ってきました。短期間にこんな極端な気持ちになる展覧会がこんな連携を取っていることに、不思議な縁を感じました。

 そもそも、展覧会で「好きか嫌いか分からない」と思うことはあまりない体験でしたので、年末年始にこの気持ちを消化したいと思っていましたが、未だ答えが出ないままだったのです。「結局私たち、インドの現代美術に興味がないってこと?」と一緒に観に行った友人と話したのですが、それでは何か言い足りない気がします。なんと言うか、共感ポイントの少ない展覧会だったなあ、というぼんやりもやもやした気分でした。一方『ネオ・トロピカリア』ですが、特に私はブラジルに興味はなかったものの、「この気持ち、分かるよー。」と思える作品が多かったです。例えば、野菜やパンを小さく切って重ねたり、並べたりして写真を撮ったり、アリにキラキラの紙を運ばせた映像作品を作るリヴァーニ・ノイエンシュヴァンダー、町並みの外壁をカラフルな色に塗り分けたルイ・オオタケなど。自分の趣味が合ったか、合わなかったかの差、と言われればそれまでなのかもしれませんが、なんと言っていいのか分からない展覧会と、誰かに話したくてたまらない展覧会の違いをうまく説明できれば、展覧会体験を新たな言葉で語れそうな気がしました。

森美術館『チャロー!インディア』ウェブサイト

東京都現代美術館『ネオ・トロピカリア』ウェブサイト

2009年1月3日土曜日

市民を見くびるな

 『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』という本を読みました。大英博物館、ロンドンのナショナル・ギャラリー、シカゴ美術館、J・ポール・ゲティ美術館、MoMA、メトロポリタン美術館といった欧米の主要美術館館長、館長経験者が行ったシンポジウムをまとめたものです。「市民の信託」というサブタイトルに惹かれて手に取ったのですが、原題では「Public Trust」と表現しています。英語「Public」と日本語の「市民」という言葉の背景にある重みというか意味合いに違いがあるのではないかと感じましたが、今回は各氏の議論に焦点を当ててみたいと思います。

 それぞれの議論はやや美術至上主義的な、美術史界のエリート大集合といった雰囲気も感じられましたが、現場を厳しく見てきた経験によるとても示唆に富んだものでした。私が普段何気なくしかし同時にもやもやとした違和感も持っていた「美術館は誰のものか」という疑問について言葉を与えてくれる本でした。

 特にNYのメトロポリタン美術館館長、フィリップ・デ・モンテベッロ氏の講演はとても私の心に響きました。彼は前半で、美術館が市民の信託を得るために真の学究の証である純粋さ、謙虚さを示す「威信」、そして政治的意図や市場原理で歪められることのない「オーセンシティ(真正さ、本物であること)」が必要であると語っています。これらのキーワードに基づき、現在の美術館が置かれている状況をこう語っています。美術館は規模が大きくなるにつれ運営が困難になり、資金を確保するというプレッシャーのために美術館の方針を本来的な使命ではなく、市場原理に委ねている。さらに来館者が美術館の新たな焦点となり、過剰なまでの催事と展覧会が行われている。ここで彼は、美術館が来館者に焦点を置くことで奇妙なパラドックスが生まれる、と指摘しています。「芸術作品ではなく来館者を中心に据えると、来館者がよりよい奉仕を受けることにはならず、(中略)美術館が来館者の興味を引きつけ、喜ばせようとすると、必然的におもねる姿勢が生まれるでしょう。つまり、来館者の数が重要なのであれば、その質が問われることはないのです。(中略)あらかじめ集客を見込める展覧会を際限なく繰り返すならば、人々の視野が十分に広がることはありません。そうなれば、人々は美術館に対して、より多くを求めようとはしなくなるでしょう。」(pp.214-217)

 これはなかなか強烈な批判です。まさに私がうっすらと嫌悪感を抱くメガ展覧会の一面を表していると思いました。来館者が沢山入ることによって成功が量られ、その内実、展示室の中は込み合うばかりで落ち着いて鑑賞することが出来ない、という展覧会を私たちは少なからず体験しています。センセーショナルで派手な展覧会に対する苛立ちや物足りなさは、来館者に対するどこか不誠実な振る舞いによるものだと私は感じていました。デ・モンテベッロ氏はメトロポリタン美術館館長という経験から、集客をねらった企画と、真剣な目的を持って行われた展覧会の違いを市民は十分承知している、と力説しています。これは市民の反応に過敏になれ、ということではなく、美術館が市民に迎合していないという意識、信頼に基づいた評価を市民から得られるかどうかが問題だと言っています。私たちは、メガ展覧会に偏重することで彼らが言うところの市民と美術館との信頼関係を、信じようとしてこなかったと言えるのではないでしょうか。

 他の6人の議論も切り口は違うものの、美術館が市民に対して果たすべき責任、つまり娯楽産業と競合して安易な楽しみを提供するのではなく、理解に時間はかかっても美術と向き合うことには価値がある、ということを伝えるべきという主張をしており、とても勇気づけられる一冊でした。さて、私にとって次の課題は日本の中での「市民=public」とは何か、について掘り下げて考えることになりそうです。

『美術館は誰のものか 美術館と市民の信託』
編:ジェイムズ・クノー

出版社:ブリュッケ