2008年7月25日金曜日

手仕事の記録

 サントリー美術館『小袖 江戸のオートクチュール』展のオープニングに行ってきました。サントリー美術館がまだ赤坂にある頃から、筒書きや紅型など、布にまつわる企画展はとても印象に残っているので、楽しみにしていました。今回の展覧会も、一面の鹿子絞りや大胆な色遣い、繊細な刺繍など、目を楽しませてくれる小袖が次々と展開していて、「私だったら、これを着たいなあ」などと思いながら見ていきました。

 その中で、私の目をぐっと引きつけるものがありました。一点だけ覗きケースに入れられた着物です。「蝶模様胴服」という、衣服や甲冑の上に着る上着だそうです。裾が右から斜めに切られてしまっており、他の小袖のように衣紋に掛けた形で展示できなかったのはそのせいでしょうか。でも、そのお陰で布の風合いまで間近に感じられました。

 さて、私が引きつけられたのは、模様でも色合いでもなく、割けた絹地を繕った縫い目でした。横糸が弱かったのか、袖の下のほうにうっすらと横に割けたような部分がいくつか見られましたが、それを塞ぐように、ジグザグの縫い目があちこちに見えます。これまで展示作品としてしか見えていたかったものが、突然人の手の動きが感じられるものに見えてきました。私も何かを縫うのが好きなので、時々何の目的もなく運針をしてみたり、破けてしまった服を細かい縫い目で直したりすることもあります。だからこそ手縫いの縫い目から、それを施した人の存在感が気になったのだと思います。しかし同時に、今まで自分は展覧会の資料や作品に、それほど近しい思いを持つこともなく接してきたのかも、ということに気づかされました。「展示作品」として見ていたものの背後に、何人もの人がそこに関わってきたことや、歴史の流れを感じ、視点が急に奥行きを持ったような、ちょっとした衝撃体験だったのでした。

2008年7月13日日曜日

博物館が生き続けるには

 最近、博物館マーケティングの本を読んでいます。博物館は、地域社会や文化形成、あるいは国家にとって重要な存在ですが、経済的に成り立たせ、運営し続けていくためにではどうしたらいいのか?そのような疑問を探るため、F・コトラー+N・コトラーの『ミュージアムマーケティング』(第一法規、2006)とR. Sandell+R. R. Janes編の『MUSEUM MANAGEMENT AND MARKETING』(ROUTLEDGE、2007)を平行して読み始めました。

 私は初め、マーケティングという言葉に偏見を持っていました。何が何でもあるモノを買わせるための技のように誤解していたからです。その誤解と納得のいかなさを解消してくれる文章が『ミュージアムマーケティング』の中にありました。「マーケティングの役割は、ミュージアムの目的達成を助ける役割のひとつと見なされなければならない。マーケティングがミュージアムの目的を決めるのではない。マーケティングとは、組織の目的達成を支援するために、有る理念のもとにまとめあげられた一連のツールとプロセスである」(p.440)。文化施設には文化施設としての目的があり、それを成し遂げるためにマーケティングの理論を用いる、と考えると分かりやすくなりました。

 この本の中での事例は北米あるいはヨーロッパのものが多く、そのまま日本の現状に当てはめられるものばかりではありませんが、それらの考え方は、改めて博物館や美術館の目指すものや役割を考える上で参考になるものでした。中でも、「地域社会との関わり」というテーマは様々な事例に登場していました。「地域社会」は、利用者だけでなく、ボランティアとして博物館を支える市民、ステークホールダー、など様々です。彼らの存在と意義を改めて考えることで、博物館や美術館の目指す方向が見えてくるということは、よく考えると当たり前なことかもしれませんが、なるほどと思えましたし、実際に行うことは時間も労力もかかるものだと気がつかされるものでした。

 また、博物館や美術館はもはや、ただ存在し、資料や作品を公開するだけで価値がある、それだけで適切な来館者がやってくると信じていられる時代ではないということが、問われています。他の組織やミュージアムの競争にさらされることで、自らの役割、機能、詩情を再定義する必要があると書いています(p.105)。しかしここで、競争に勝ち残るためには、大衆が求めることは何でもやれば良いのか?という疑問がわき起こります。この点に関しては、コトラーも指摘しています。しかし、冒頭で引用したように、「組織の目的と理念を成し遂げる」という考えから離れることがなければ、軸がぶれることはないのかもしれません。『MUSEUM MARKETING AND MANAGEMENT』では、従来のマーケティングと博物館のマーケティングの違いを「感情的なアイデンティティと、博物館が作り上げてきた公共的価値への信頼を作りだすこと」(p.4)と定義しています。「感情的なアイデンティティ」とは、「博物館、美術館と自分の間には深い関係があると感じられること」とも言えるかもしれません。さらに、「博物館のマネジメントに一般企業の論理を当てはめると誤解を生む。なぜなら、一般企業のように四半期ごとの売り上げに注目するのではなく、博物館は300年から500年に渡るビジネスプランに乗っ取っているからである。」(p.9)とも書いてありました。なんだか壮大すぎて手に負えないんじゃないかとも思いましたが、確かに、今の世代だけに焦点を当てるのではなく、次世代に文化資源を継承していくという視点から考えると、博物館のマーケティングにはこれぐらいの決心というか覚悟が必要なのかもしれない、と思わされました。