2011年2月20日日曜日

Blink -「瞬き」が与えるもの

 ジャーナリストのマルコム・グラッドウェルが書いた、"Blink"(2005)という本を読みました。翻訳では『第1感「最初の2秒」が「なんとなく」正しい』というタイトルになっている通り、何かを判断する際の直感的な理解について、様々な事例を挙げて紹介している本です。原書の副題も"The Power of thinking Without Thinking"(「考えている自覚のない考えの持つ力について」かなり意訳ですが。)となっています。

 直観的な判断が正しいものを見抜くパターン、逆に偏見に左右された直感が悲劇を生み出した例、などバランスよく興味深いエピソードが並んでいるのですが、私にとって面白かったのは、第一章と最終章がアートに関する「直感」について書かれていたことです。第一章は、アメリカのJ. ポール・ゲティ博物館が、紀元前6世紀のものと思われる彫刻をオークションで購入しようとした時の判断について書かれています。当時の彫刻は大抵発掘の際のダメージが大きいものが多い中、この彫刻は完璧な形を残していました。科学的な調査でも、作成年代はやはり当時のものと判明し、購入に向けて動く中、どこかおかしい、どうも何千年前のものに見えないという声がどこからともなく上がっていたのです。それが何故なのか説明がつかなかったのですが、メトロポリタン博物館の元館長であるトーマス・ホーヴィングも一目見て「もし支払いを済ませていないのなら、今すぐ辞めるべきだ。」と述べました。

 結局何ヵ月にも渡る調査によって、この彫刻は贋作と判断されました。科学的には本物と判断されたのに、直感的に何かが間違っていると判断されそれが正しかった、というこの例を皮切りに、グラッドウェルは私たちの周りに溢れる「第一感」の驚異と危険さについて語ります。

 そして最終章は、オーケストラのオーディションについてのエピソードで締められます。ここでは、1980年のミュンヘン交響楽団のトロンボーン奏者のオーディションについて書かれています。当時、オーケストラのオーディションは指揮者や審査員の前で演奏するのが普通でしたが、この時、調度参加者に審査員の息子が居たため偏見を避けるためつい立てを立てて演奏者が見えないような状態で行われました。当時のオーケストラは男性中心社会で、バイオリンやハープなど「女性的」な楽器を除いて女性の演奏者が入ることは大変難しかったそうです。金管楽器などは最も男性的なものと考えられてきました。さて、このオーディションに一人の女性が参加していました。オーケストラのオーディションでは、最初の数小節、もっと大げさにいえば楽器を準備している段階で善し悪しが分かる、と言われているそうです。この時のオーディションでもマエストロは最適なトロンボーン奏者をほぼ直感で判断し、すぐに「彼」を呼んでくるようにと言いました。そして彼の前に表れたのは、女性の奏者でした。こんなことはあり得ない!マエストロは驚愕しました。純粋に音楽的に判断されていたと思っていたものが、視覚的な偏見に左右されていたことが明らかになったのです。この後、ヨーロッパを始め北米の有名なオーケストラでも、つい立てを使ったオーディションを行うようになり、オーケストラにはますます女性が増えることになったそうです。

 この本を読み終わった後、私も美術やダンス作品をみる時にどんな判断をしているかな、と考えてみました。一つ、私の中で、アートにおける"Blink"についてとても印象的な出来事があります。2001年の横浜トリエンナーレで教育プログラムのアシスタントとして働いていた時のことです。小学3年生のグループを連れて会場を回っていた時、がらくたがカオス状態で積み重ねられたようなヲダ・マサノリという作家の作品の前で立ち止まりました。その時、グループの一人の男の子が「これ、子どもが作ったの?」と聞いてきました。思いがけない質問に「どうしてそう思ったの?」と聞いてみると「だって、おもちゃとかいっぱいおいてあるから。」という答えが返ってきました。私には見えなかった目でこの男の子はこの作品を見ている、と感じて胸がいっぱいになったことを覚えています。

 この本の最後には、前出のホーヴィングの例が書かれています。彼は新しい作品を購入する際、その作品をコートのクローゼットなどいつもと違うところにおくように頼むそうです。自分の積み重ねた知識に左右されないように、ドアを開けて突然作品を見てどう感じるかを判断材料にするとのこと。私は勿論、作品の購入やオーディションなどといったシリアスな状況は体験したことはありませんが、知らず知らず自分の知識や体験の蓄積に頼って、直感的な見方をすることが少なくなっているかもしれません。しかしまた、そういった蓄積が的確な直感を導くこともあるのではないかとも思うのです。これらの間を行ったり来たりすることが私自身アートに対する一番相応しい態度かもしれない、と思います。

 最後はちょっと本の内容から離れてしまいましたが、グラッドウェルの著作はどれも、私たちのものの見方に一石を投じるわくわくするものばかりなので、大変お勧めです。tvoというサイトで彼自身が"Blink"について語っている映像を見ることができます。こちらも彼のチャーミングな人柄が垣間見られるのでお勧めです。



2011年2月16日水曜日

創造的引きこもり?

(English follows after Japanese)  

 今日は個人的な話を少し。先日、ふとモーリス・ベジャールという振付家の作品「ボレロ」について思い出し、YouTubeで検索してみたところ、ダンサーのジョルジュ・ドンが踊る映像が見つかりました。これは、私が高校生の時に初めて見てまさに釘付けになった作品です。真っ赤な円形の舞台の上で孤高に踊るソロ、それを囲む群舞の異教的な秘密めいた動きは、物語のあるクラシックバレエの世界と違い、肉体の力強さが剥き出しになったような衝撃がありました。人の動きがこんな風に空間の空気を変えてしまうことに、10代の私はどう言い表したらいいのか分からない思いに包まれました。と同時に、今でもその衝撃が変わらなかったことにも改めて感じ入るものがありました。

 思い返してみると、この作品だけでなく、勅使川原三郎や山海塾といった現代舞踊/ダンスや、画家のエゴン・シーレ、ジョージア・オキーフ、彫刻家のイサム・ノグチ、ブランクーシなど、その頃出会った芸術表現は、今も変わらず私の価値観の土台になっていることに気が付きました。実は、当時の私は女子高校生らしい同級生との人付き合いにはそれほど積極的ではなく(勿論、毎日普通に学校には通っていましたが。)自分の心を動かす芸術の世界に引きこもっていました。それは、「世界はあんな風にも、こんな風にも見える、世界のあり方は一つではない。いったい世界はどう表現されるのだろう。」と未熟ながらも思う心躍る日々でした。

 やや大げさではありますが、結局こんな毎日だったため、まともに友人付き合いらしいものを始めたのは大学に入ってからでした。今までこのような自分は負の一面というか、暗い過去のような気がしていたのですが、私は私のやり方で芸術を通じて世界との繋がりを親密に作っていたのだ、と「ボレロ」の映像を繰り返し見ながら思えてきました。そしてあの日々が今の私を支え続けていることに気づきました。

 ここ数年、大きな視点で社会における芸術の意義とは、価値とは、と考えて道に迷うような思いになることが続いていましたが、こんな身近なところに答えの一片が落ちていたとは!個人的なエピソードながらとても嬉しい驚きです。

Creative cocooning?

It is a little bit personal story. The other day, I suddenly came across in my mind the ballet work choreographed by Maurice Bejart, "Bolero". I have searched it on YouTube and found one that Jorge Donn danced the solo part. That was what I had seen when I was a high school student. I do remember how I felt that moment, so impressed, and literally, I kept my eyes on it. The solo dancer who looks so superior to anyone else, and others around him were like mysterious pagan dancers. It was totally different from classic ballet I know that have story and they divide male character and female character clearly. The energy of body seemed to be so naked, and it gave me shock. I, who was in teenage, was not able to find words to describe what it is that human movement create such a powerful atmosphere. At the same time, I was impressed that the shock I experienced has not changed even now.

To recall my teenage days, what I have encountered then such as modern dancers like Saburo Teshigawara, or Sankaijuku, painters, for example, Egon Schiele and Georgia O'Keeffe, or sculptors like Isamu Noguchi or Constantin Brancusi are still the basis of my sense of value of art. To be honest, when I was a high school student, I'm more reluctant to go out with friends (of course I attended class everyday!) than cocooning in my own world of art that makes me excited. I often thought "the world could express in many ways by seeing the world as we like through art, how many art works are there that show me different aspect of the world?". To be more honest, I was not happy at being with classmates, and it was after entering university when I started enjoy meeting and chatting with friends. For me, I have thought it was my negative side of teenage days or could be said "dark history in my life". It was not at all. I finally realised it was not when I saw the video of Bolero again and again on YouTube. I was creating the intimate connection with the world through the arts in my own ways at that time. In these several years, both at work and personal life, I have been feeling like stuck because there did not seem to have the answer for the big question, "What is the meaning, what is the value of art in society?". Now I found a small piece of answer it is in myself. Although it is personal anecdote, it is truly happy discovery for me.