2008年12月21日日曜日

七日間アート業界旅行

 Sarah Thorntonの『Seven Days in the Art World』という本を読み始めました。大学で美術史を勉強し、社会学の博士号を持つ作者による、現代美術業界を追ったドキュメンタリーのような趣のある本です。経歴からも分かるように、美術史だけでなく、社会学という少し離れた視点から現代美術のオークション、アーティスト、評論家、美術館について語っています。美術業界にどっぷり浸かった立場の人ではないところに魅力を感じ、手に取った次第です。

 そしてページを開いてわくわくさせられたのは、その臨場感ある語り口です。「午後4時45分、11月の午後のニューヨーク。クリスティーズのオークショニア、クリストファー・バーグは音声チェックを行っている。・・・」という、ミステリー小説のような冒頭に引き込まれていきました。何より面白く感じるのは、作者がアート業界への疑問に、全く手を抜かずにぶつかっていく姿勢です。内部にいる人たちにとっては「そこはあえて触れないで。そんなことみんな分かってるでしょう。」と言いたげなことにも、言葉を発していきます。「オークション」の章では、アート作品が市場経済に取り込まれ、まるで儀式のように売買されていることへの不思議、アートについて全く勉強したことのないアートコンサルタントの様子、そしてオークションに直接作品を出す現代作家について鋭く描写しています。

 今第2章の半ばまで読み進みました。まだまだ旅は始まったばかり。冬休みはこの本に没頭したいと思っています。



 



 
 

2008年11月22日土曜日

アートと街とキュレーター

 ブリティッシュ・カウンシルで行われた「アートと街の新しい可能性〜英国フォークストン・トリエンナーレのキュレーターを迎えて〜」というトークを聞きにいきました。ゲストであるキュレーターのアンドレア・シュリーカー氏は、これまでロンドンのギャラリーやプロジェクトに関わったあと、この美術展のキュレーターとして参加しました。

 今年初めて開催されたこのトリエンナーレは、人口が5万人に満たない英国南東部海沿いのフォークストンという街が舞台でした。まさに舞台といえるほど、街と住民とアートが絡み合った美術展であると感じました。残念ながら当日ちょっと遅刻してしまったため、美術展の概要や経緯については聞き逃してしまいましたが、参加作家とその作品からはフォークストンの社会的課題と絡めた構成が分かりました。例えば、年金生活者とその犬たちをテーマにした作品、第一次世界大戦での犠牲者(フォークストンはフランスに面した港町なので、ここから戦いに赴く兵士が多かったようです。)の数だけナンバーを打った石を、芝生に敷き詰めた作品、街の核となっていた港を展示空間に選んだ作品など。特に私が面白いと感じたのは、トレイシー・エミンというイギリスの作家です。彼女自身フォークストンの近くで生まれた作家で、今回フォークストンで問題になっている10代の妊娠をテーマに取り上げました。赤ちゃんの服や靴下、靴、ぬいぐるみなど本物そっくりの形をブロンズで作り、街の公園や駅のホームなどに配置しました。さらに、学校教育から外れてしまった子供たちのための教育プログラムも企画されたそうです。そういったこともあってか、屋外に置かれたこれらの作品が若者によって壊されたりすることは全くなかったと、シュリーカー氏は語っていました。

 参加者の質問も、実務的な課題についてのものが多く充実していました。例えば、小さな街で現代アートの展覧会を開催する、という事態に住民からの拒絶はなかったのか?50万ポンドもの資金をどうやって確保したのか?これだけの規模の美術展を開催するまでのタイムスケジュールは?などなど。最初の質問に関しては、住民の”awareness raising(意識を高めること)”が必要で、そのために教育プログラムが重要だったと彼女は答えていました。街ひとつをフィールドとして、美術展を開催するには時間と軸のぶれないテーマ設定とそしてもちろん資金がとても重要だということを再認識した機会でした。シュリーカー氏の「キュレーターにとって、街ひとつを美術展として企画できる機会はめったにないことだ」という言葉もとても印象的でした。



2008年11月2日日曜日

視点への刺激



 

 五反田の5TANDA SONICで行われている「プロトタイプ展」を観に行きました。去年に続いて2回目となる若手デザイナーによるプロトタイプ=試作モデルの展覧会です。主催者の芦沢啓治氏(自身も照明器具を出展)は、プロトタイプとは言わず「何か面白いものない?」とデザイナーに声をかけてこの展覧会を作っていったとのこと。私の仕事はデザインとは全く違うジャンルなのですが、発想や物事の捉え方に新たな刺激を受けるこういった展覧会は機会があると観に行きます。この展覧会に出展しているのは、インハウスデザイナーもフリーのデザイナーもいて、70年代から80年代前半生まれと大体私と同じ世代です。

 今回は、純粋に私が好きだと思ったものを紹介します。まずは寺山紀彦氏の「floating flower」という花器。水盤がついており、散った花びらも楽しめるという趣旨です。お花見に行った時、池の上に散る花びらから発想を得たものだそうです。この気持ちに共感できるし、それを形にした白い陶器の慎ましさも気に入りました。

 それから、岡安泉氏の照明器具「float」。天井から吊るされた展示版の形に添って、光が落ちてくる照明器具です。床には展示版のふちと同じ形で細く光が映っています。こっそり展示版を揺らしてみたら、光もついてくる!不思議!展示盤のみに光が照射されるように、光源がレンズで制御されているそうです。とても詩的。

 もうひとつは山中裕一郎氏の「CH-BED-AIR」。これは説明するのがとても難しいオブジェクトです。一見体の形に添ったソファーにも見えるのですが、それにしては質感が固そうです。解説を見ると、スポーツの様々な姿勢を受け止める装置だそうです。実際にどう使うか描かれたスケッチを見てなるほど!と思いました。これはもう、形のシャープさと、スポーツという視点から身体を支える装置を形にしたという切り口にシビレました。
 因に5TANDA SONICはデザイン会社A.C.Oが運営しています。これからも応援していきたいギャラリーです。

5TANDA SONICウェブサイト

2008年10月17日金曜日

世界金融危機と博物館

 イギリスの博物館情報サイト、24Hour Museum でショッキングな記事を見つけました。マンチェスターの科学産業博物館が、昨今の世界金融危機で国有化されたアイスランドの銀行に投資しており、900,000ポンド(約1億5700万円)の損失を出したそうです。博物館のディレクターSteve Davis氏によると、館の主要な資金ではないで運営には影響がないとのことです。しかし実は、この資金は教育プログラムや地域の歴史遺産プログラムのための蓄えていたものだったそうです。プログラムが滞ることのないように現在支援者やパートナーを探しているとディレクターは語っています。

 この記事は、毎日マスコミを賑わしている金融危機のニュースが、にわかに身近に感じられる内容でした。各種金融機関に投資している各国の博物館や芸術文化財団が、この先同じような問題に直面する可能性がどれぐらいあるのだろう、と考えるととても不安な思いになります。そしてなによりも、博物館教育を専門に勉強してきた私にとって「運営には影響はない」けれど「教育部門の資金に損失が出た」というくだりも見過ごせない問題であると感じました。

2008年10月5日日曜日

違いを体感する

 先週末、国立新美術館で『アヴァンギャルド・チャイナ ー〈中国当代美術〉二十年ー』という企画展を見てきました。大学院時代の中国人の同級生から、上海で現代美術館ができるという話を聞いたり、中国のアート市場は今とても活気があるという話題をあちこちで耳にしていたので、期待していた展覧会です。

 政治思想や国家の情勢に左右されてきたであろう、80年代の葛藤溢れる作品群を通り過ぎ、90年代の映像作品のコーナーで、私は強烈に圧倒される思いになりました。馬六明(マ・リウミン)と張洹(ジャン・ホアン)は特に、鮮烈な印象を残しました。二人とも、自身の肉体を使って表現する作家です。裸で魚を調理したり(馬六明)、天井から宙づりになって自分の血を抜いたり(張洹)する、衝撃的な映像が続くのですが、どうしてもそこから目が離せないパワーを感じました。そして「なんだか、とてもかなわない!」という思いになりました。

 同じような気持ちを、イギリスの大学院にいた時に感じたのを思い出しました。私が通っていた大学には多く中国人学生がいました。キャンパス内では、中国人学生同志で連れ立って、抱えきれない程の食材を買ってきて、寮の小さな台所で豪快に料理をしてモリモリ食べている様子をたびたび見かけました。その時も同じように圧倒される気持ちになったのです。食べてそして生きていくという、この肉体の力強さは、日本人の私にはどうも少ないのかもしれないと思ったのでした。この辺りの感覚はなかなかうまく説明できないのですが、肉体への関心と態度が日本人とは違うんだなあ、国民性というのは本当に違うものだなあと初めて実感した瞬間でもありました。

 また、最近仕事のある場面で「相手の文化を理解することは、安全保障につながる」と言った方が居り、なるほどー思ったことがあります。この展覧会の体験は、その一例と言えるのではないかと感じました。馬六明と張洹の作品に見たように、他者との違いを肌で感じさせ、考えさせる体験は、アートが私たちに与える潜在的な力であり、奥行きの深さであると思いました。心情的な問題でぎくしゃくしがちなことが多い中国と日本ですが、アートがその隙間を縮めてくれるものになるかもしれない、という期待を感じる展覧会でした。

2008年8月31日日曜日

暗闇での対話

 先週、学士会館で行われた「ダイアログ・イン・ザ・ダーク」に行ってきました。完全な暗闇の中を、目の不自由な方のアテンドにより体験するワークショップ形式の展覧会です。私は2004年に一度参加しており、4年経って何か感じ方が変わっているかどうか確かめてみたいと思い、もう一度参加しました。

 目の前の自分の手さえも見えない完全な闇の中で、アテンドの声と白杖だけを頼りに、7~8人ぐらいのグループで草が敷き詰められた場所を歩いたり、丸太橋や吊り橋を渡ったり、バーで飲み物を飲んだりします。初めは怖くて一歩踏み出すのも躊躇するのですが、だんだん慣れてくると声が聞こえる方向や人の近さが分かってきます。前回参加した時、よく覚えているのは、グループからはぐれそうになって「あれ、どっち?」と思わず声を上げたら、「こっちですよ」とアテンドの人が「まるで見えているかのように」私の腕を取って方向を教えてくれた場面です。それはもう、衝撃的な体験としか言いようがなく、同時に、自分の知りえない感覚で世界を感じて生きている人がいるということに気がつかされた体験でもありました。

 さて、今回はどうだったかというと、意外に前回の感じを身体で覚えていてもっと大胆に動けたのが驚きでした。プログラム自体もあまり変わりなく、そうそう、こんな感じだったな、と前回の記憶をたどるような体験でした。そしてプログラムが終了すると、突然普段の明るさに戻ると目に刺激が強すぎるので薄暗い空間でしばらく参加者とアテンドの方とお話しする時間がありました。(前回は明るいところに出てから、お話しした記憶があります。)参加者たちは衝撃も覚めやらず、アテンドの方にしきりにどうして暗闇で分かるのですか?とか、すごいですね、といった感想を話すのですが、私はそこでかすかに違和感を感じました。私が二回目の参加だったから冷静に居たからかもしれませんが、視覚が不自由な人たちは、目が見える私たちとは違う感覚を使って生活している訳で、それって凄いとか信じられないとかそういうものではないと思ったのです。反対に私は、自分の視覚が機能しない暗闇の中で、アテンドの方に手を引かれた時、とても孤独な感じがしたことを思い出したのです。自分の知らない感覚世界があって、そのなかで生きる人が居る、ことがどんなことか知らなかったということが一番衝撃でした。

 それは、想像力を持って相手のことを考えましょう、とか、他者の気持ちを汲み取りましょうとか、そういう物言いがとても嘘くさく感じる程の思いだったのです。視覚が不自由な人とそうでない人との間だけではありません。病気の人と健康な人、子供と大人、異性愛者と同性愛者、男性と女性、外国人と日本人、などなど、それぞれ違っていることは知っていても、自分が生きている感覚や日常がみんな同じではない、ことまで思いを馳せ、「ダイアログ=対話」する機会がどれほどあるだろうかと思ったのです。
 博物館とはちょっと離れた話題ではありましたが、博物館体験について考える時、この感覚がいつか役に立つような気がします。

2008年8月18日月曜日

ただいま製作中

 週末友人と、森美術館の『アネット・メサジェ』展を見に行きました。1970年代から活躍しているフランス人アーティストの展覧会です。バラバラにしたぬいぐるみで構成された作品、彩色した写真、コラージュなど、様々な手法の作品で構成されていました。

 網を展示室に配置した作品や、天井から床まで壁面にクレヨンのようなもので文字が書いてある作品を見て私たちは、「これって、本人が来て展示するのかな。巡回する時どうするんだろうね。」など、作品がどう展示されたかの方が気になりつつ展示室を回りました。すると展示室の最後、丁度ワークショップを行っているスペースの壁面に、展示風景の映像が流れていました。そこにはメサジェご本人や学芸員だけでなく、展示業者を始め展示作業を手伝う人々の姿が映っていました。先ほど気になった壁面の作品は、メサジェの手ほどき(?)を受けた多くのスタッフたちが脚立に乗ったり、床に腹這いになったりしながら文字を書いている様子が紹介されていました。私たちは「こんな風に作っていたのか!」とか「やっぱりこの部分は本人が決めるのね」とまるで謎解きをするかのように作品の展示風景に見入ってしまいました。

 ふと、こういう映像が展覧会でもっと見られたらいいのに、と私は思いました。来館者は、普段完成された展覧会しか目にすることが出来ません。でもそこにたどり着くまでには、展示の構成を決め、展示室をデザインし、作品を運び込み、開封し、しかるべき場所に展示するという長い行程があります。いつもはしんと静かな展示室に、実は生々しく活気に満ちた「ドラマ」があるなんて、とても興味深いじゃありませんか!

2008年7月25日金曜日

手仕事の記録

 サントリー美術館『小袖 江戸のオートクチュール』展のオープニングに行ってきました。サントリー美術館がまだ赤坂にある頃から、筒書きや紅型など、布にまつわる企画展はとても印象に残っているので、楽しみにしていました。今回の展覧会も、一面の鹿子絞りや大胆な色遣い、繊細な刺繍など、目を楽しませてくれる小袖が次々と展開していて、「私だったら、これを着たいなあ」などと思いながら見ていきました。

 その中で、私の目をぐっと引きつけるものがありました。一点だけ覗きケースに入れられた着物です。「蝶模様胴服」という、衣服や甲冑の上に着る上着だそうです。裾が右から斜めに切られてしまっており、他の小袖のように衣紋に掛けた形で展示できなかったのはそのせいでしょうか。でも、そのお陰で布の風合いまで間近に感じられました。

 さて、私が引きつけられたのは、模様でも色合いでもなく、割けた絹地を繕った縫い目でした。横糸が弱かったのか、袖の下のほうにうっすらと横に割けたような部分がいくつか見られましたが、それを塞ぐように、ジグザグの縫い目があちこちに見えます。これまで展示作品としてしか見えていたかったものが、突然人の手の動きが感じられるものに見えてきました。私も何かを縫うのが好きなので、時々何の目的もなく運針をしてみたり、破けてしまった服を細かい縫い目で直したりすることもあります。だからこそ手縫いの縫い目から、それを施した人の存在感が気になったのだと思います。しかし同時に、今まで自分は展覧会の資料や作品に、それほど近しい思いを持つこともなく接してきたのかも、ということに気づかされました。「展示作品」として見ていたものの背後に、何人もの人がそこに関わってきたことや、歴史の流れを感じ、視点が急に奥行きを持ったような、ちょっとした衝撃体験だったのでした。

2008年7月13日日曜日

博物館が生き続けるには

 最近、博物館マーケティングの本を読んでいます。博物館は、地域社会や文化形成、あるいは国家にとって重要な存在ですが、経済的に成り立たせ、運営し続けていくためにではどうしたらいいのか?そのような疑問を探るため、F・コトラー+N・コトラーの『ミュージアムマーケティング』(第一法規、2006)とR. Sandell+R. R. Janes編の『MUSEUM MANAGEMENT AND MARKETING』(ROUTLEDGE、2007)を平行して読み始めました。

 私は初め、マーケティングという言葉に偏見を持っていました。何が何でもあるモノを買わせるための技のように誤解していたからです。その誤解と納得のいかなさを解消してくれる文章が『ミュージアムマーケティング』の中にありました。「マーケティングの役割は、ミュージアムの目的達成を助ける役割のひとつと見なされなければならない。マーケティングがミュージアムの目的を決めるのではない。マーケティングとは、組織の目的達成を支援するために、有る理念のもとにまとめあげられた一連のツールとプロセスである」(p.440)。文化施設には文化施設としての目的があり、それを成し遂げるためにマーケティングの理論を用いる、と考えると分かりやすくなりました。

 この本の中での事例は北米あるいはヨーロッパのものが多く、そのまま日本の現状に当てはめられるものばかりではありませんが、それらの考え方は、改めて博物館や美術館の目指すものや役割を考える上で参考になるものでした。中でも、「地域社会との関わり」というテーマは様々な事例に登場していました。「地域社会」は、利用者だけでなく、ボランティアとして博物館を支える市民、ステークホールダー、など様々です。彼らの存在と意義を改めて考えることで、博物館や美術館の目指す方向が見えてくるということは、よく考えると当たり前なことかもしれませんが、なるほどと思えましたし、実際に行うことは時間も労力もかかるものだと気がつかされるものでした。

 また、博物館や美術館はもはや、ただ存在し、資料や作品を公開するだけで価値がある、それだけで適切な来館者がやってくると信じていられる時代ではないということが、問われています。他の組織やミュージアムの競争にさらされることで、自らの役割、機能、詩情を再定義する必要があると書いています(p.105)。しかしここで、競争に勝ち残るためには、大衆が求めることは何でもやれば良いのか?という疑問がわき起こります。この点に関しては、コトラーも指摘しています。しかし、冒頭で引用したように、「組織の目的と理念を成し遂げる」という考えから離れることがなければ、軸がぶれることはないのかもしれません。『MUSEUM MARKETING AND MANAGEMENT』では、従来のマーケティングと博物館のマーケティングの違いを「感情的なアイデンティティと、博物館が作り上げてきた公共的価値への信頼を作りだすこと」(p.4)と定義しています。「感情的なアイデンティティ」とは、「博物館、美術館と自分の間には深い関係があると感じられること」とも言えるかもしれません。さらに、「博物館のマネジメントに一般企業の論理を当てはめると誤解を生む。なぜなら、一般企業のように四半期ごとの売り上げに注目するのではなく、博物館は300年から500年に渡るビジネスプランに乗っ取っているからである。」(p.9)とも書いてありました。なんだか壮大すぎて手に負えないんじゃないかとも思いましたが、確かに、今の世代だけに焦点を当てるのではなく、次世代に文化資源を継承していくという視点から考えると、博物館のマーケティングにはこれぐらいの決心というか覚悟が必要なのかもしれない、と思わされました。

2008年6月5日木曜日

博物館史探訪


 

 博物館や展覧会の歴史を知りたくて、いろいろと調べています。
以前から私は、「なぜ日本のメガ企画展には行列が出来る程人が集まって、まともに作品や資料を見られないぐらいの混雑ぶりになるにも関わらず、それが呼び水となるようにますます人が集まるんだろう?私たちはどうしてそういう状況に惹きつけられるのだろう?」という疑問を持っておりました。もしかしたら歴史を遡ってみればその答えのヒントがあるかも?と思い、博物館史関連の文献を探っていたところ、『博覧会の政治学』(吉見俊哉著・中公新書)にたどり着きました。

 この本では、帝国主義、消費社会そして大衆娯楽主義という切り口から、近現代の博覧会について語っています。そして、博覧会の歴史は、博物館展示の歴史とも交差するように発展していることも示唆されています。特に日本における博覧会の歴史を知ることで、日本の博物館の発展と共に、博物館来館者のあり方や行動についても浮き彫りになるところが多くありました。

 私は中でも、特に大衆娯楽主義という見方に興味を持ちました。まず、日本における博覧会の黎明期、政府はどのように博覧会が市民に体験されるべきかと考えていたかに注目してみます。明治政府は、日本で博覧会を開催するモデルとしてウィーン万博を捉えていました。この時実際に万博に行った工部大丞佐野常民は、博覧会と博物館が「相離れざる」ものであると評しました。さらに博覧会に対する姿勢は、「眼視の教」によって多数の展示物を比較しその善し悪しから製造法、使用法までを学ぶことである、としています。また、政府は見物人への注意書として、博覧会は開帳や見世物とは違って、珍奇なものを面白がったり、霊宝を拝んだりすることではない、と明記しています。

 さて、この政府の思惑は市民一人ひとりには浸透したのでしょうか?吉見氏はこう書いています。「・・・博覧会の見世物的な受容は、明治10年代までの内国博においてとくに顕著にみられるものだが、それ以降も完全に失われてしまうわけではない。新聞は読者に(中略)物見遊山で博覧会にやってくる人々が少なくないことに注意を呼びかけている。(中略)まさにこのような江戸以来の見世物との連続性を保ち続けたからこそ、博覧会は明治の民衆に早くから比較的容易に受容されることができたのだとも考えられるのである。」(pp134-135)このような考え方は、肌に感じる実感として私にとって納得できるものでした。『図解博物館史』(椎名仙卓著・雄山閣)によると、江戸時代には281年間の間に江戸では1565回もの開帳が行われていて、期間は3日から50~60日と、毎日江戸のどこかでは開帳が行われていたことになるそうです。そこでは相撲や芸人の奉納、手品、軽業、鬼娘の見世物なども見られたそうです。(pp.25-32)博覧会、そして博物館、美術館として展示空間が発展していく中で、開帳や見世物として展示空間を楽しむ精神は、現代に至るまで脈々と続いているように思えるのです。  

 見世物と展覧会を一緒にするなんて、と言われてしまうかもしれませんが、非日常的な高揚感、人々の賑わい、珍しい展示物、といったものに惹かれる気持ちが、展覧会に赴く動機としても少なからずあると思います。それは決して悪いことではなく、「何だか分からないけど、取りあえず来てみた」という人たちに、博物館、美術館が何を、どのような形で提供できるか、そして、そこから新しい好奇心や知識や、あるいはモノの見方について提案ができるかと考えていくことが重要なのだと思います。「混んでて何がなんだかわからなかった。」という感想だけを持たれてしまうのはもったいないことです!特に興味や知識はないけど噂になっているから来てみた、という人たちに例えば、企画展だけでなくて常設展にも行ってみよう、とか、日常的に博物館、美術館に行ってみようと思わせる「フック」を作ることが現代の日本の博物館、美術館には求められるのだと感じます。

 博物館史探訪の旅はまだまだ続きます。イギリスで博物館学のPhDを終えた友人からも「この本は是非読むべき」との強いお勧めもあったので、次はTony Benettの"The Birth of the Museum"を読もうと思います。

2008年5月25日日曜日

懐かしい音

 夕食を終え、小さい音でラジオをかけながらメールを書いたりしていたところ、聞き覚えのある音が聞こえてきたので、咄嗟にボリュームを上げました。それはTENORI-ONというヤマハが発表した楽器を紹介している番組でした。新製品なのに知っている、この音!と思い耳を澄まして聞くと、TENORI-ONはアーティストの岩井俊雄とヤマハのコラボレーションによってできた楽器とのことでした。この既視感、ではなく、既聴感はなんだ?と思いめぐらしてみましたら、2001年、私は原宿のラフォーレミュージアムで開催された「岩井俊雄テクノロジープレイグランド2001 PHOTON~光の音楽」という展覧会で、確かこのTENORI-ONの小さい版(ワンダースワン版だったか?)に触ったことがあるのです。

 アート作品を音で思い出す、という体験が私はとても不思議に思えました。例えば、ある作家の同じ作品を別の展覧会で見かける、とか、図録で見つける、というのと違い、「前に体験したのと同じではないけど、何故か知っている。」というじんわりした記憶が、懐かしく、心地よく甦ったからです。このように曖昧な輪郭を保ったまま私の中に記憶され、そして思い出されるという長い時間の流れそのものが、私にとってこの作品を鑑賞する、という体験だったのかもしれないと思いました。随分と時間がかかって、気持ちのよい場所にたどり着いたような夜でした。

TENORI-ON|ヤマハ株式会社 ウェブサイト

2008年5月7日水曜日

全てのアートはキネティック

 森美術館で行われている企画展、「英国現代美術の現在史:ターナー賞の歩み展」のアーティストトークを聞く機会がありました。ターナー賞は、イギリスの秋の風物詩とも言える現代美術賞で、テレビ局がスポンサーになっていることから、毎年報道も大々的になっています。この企画展では、20年以上に渡る賞の受賞作品が集められています。私の好きな、レイチェル・ホワイトリードの作品も来ていました。

 さて、アーティストトークでは、ホワイトリードともう1人、マーティン・クリードが自分の作品について語りました。彼の作品は『ライトが付いたり消えたり』というタイトルで、文字通り展示室の照明が何秒かごとに付いたり消えたりするだけのものです。初めその展示室に入ったとき「もしかして、ここは照明の調整中?」と思ったのですが、ライトが付いたり消えたりするそのものが作品なのでした。作家はコンセプチュアルで小難しい感じの人なのかしらと思ったのですが、クリード本人はあまり人前で話し慣れてないような訥々とした話し方の人でした。うなり声(?)で構成された『ウー』という音楽作品や、女の人が嘔吐している映像作品(なぜ男性ではなく、女性がモデルかというと彼曰く、女の人の方が上手に吐くからなんだそうです!)などを紹介していました。

 このあたりで、この作家はやっぱり私向きではないかも・・・と思い始めました。しかし、作品のコンセプトについて話している中で、私は息を飲みました。彼は「全てのアート作品はキネティック(動的な、運動する)だ。モノは周囲の環境と切り離せないし、見る人は、いつも動きながらモノを見ている。アートを見る体験は、いつも動きの中に起こる演劇的なもの。」というようなことを語ったのです。これは、修論の時に私が考えていたことと通じるものがある!と感じました。

 修論のプランを練る時、「美術館体験」とは作品を見ることだけなのか?例えば美術館という場の文脈から離れて置かれたら、それはもう美術館体験とは言えないんじゃないかな、と考えたのが初めのアイディアでした。そこから、美術館体験とは作品を見るというのでなく、作品がある「場」の体験である、という考え方を中心に論文を書きました。卒業した後もこのテーマが私の中では静かに熟成を待っており、機会があればもっと深く取り組みたいと思ってきました。だからクリードの話を聞いた時、「全てのアート作品はキネティック、動きの中で作品を見る」という言葉にはっとさせられたのだと思います。彼の話を聞いて、展示され、人々に体験されるという行為そのものを、彼は作品の中に閉じ込めているように私は感じました。図録の写真や記録された映像を見るのではなく、その場で、その空間で作品を見る、ということの意味について改めて考えてみたいと感じました。

 ところでもうひとつ気になるのは、この作品をもし買ったとしたらどんな形で納品されるのか、ということです。



 生きている記憶

 なんと不思議な展覧会でしょう!先月29日からイギリスのReg Vardy Galleryで始まった”If There Ever Was”は「匂い」を鑑賞する企画展だそうです。英語では博物館資料を“museum objects"、と表現しますが、まさにobject=モノでない「もの」の展覧会とは、博物館の存在そのものが危うく思えてしまうほど衝撃的です。同時にこの展覧会を企画したキュレーターの目のつけどころに賞賛を贈りたい気持ちにもなりました。美術館のサイトでダウンロードできるリストによると、この展覧会では、絶滅した花の匂いや、太陽の表面の匂い、クレオパトラの髪の匂いなど、この世にあり得ない匂いを展示しているそうです。中には、共産主義の匂い、ヒロシマの匂いなどもあります。

 目に見えないもの、手に触れないもの、聞こえないものを展示すると、どういった展示空間になるのでしょうか。写真を探してみるとReg Vary Galleryの展覧会サイトでそれらを発見しました。展示ケースやスクリーンといった展覧会で見慣れているものが全くない空間の壁面に、展示解説パネルのようなものがあるようです。そこに顔を近づけている様子からこのパネルのどこかから匂いを感じることができるのでしょう。匂いが混じり合って、展示空間に入ったとたんミックスされた匂いに打ちのめされることはないのでしょうか。気になります。

またとても私を引きつけたのが、この展覧会があくまでも美術館の企画展であり、匂いを嗅覚と結びつけて自然科学的な視点でとらえている訳ではないという点です。UKの展覧会情報サイト24 Hours Museumではこの展覧会について、「匂いは、学校の給食や子供時代の海辺の休暇といった思い出と、しばしば結びついているものである。しかしこの展示では、記憶に全くない匂いを体験することができる。」と紹介しています。確かに自分自身について考えてみても、外国の街の匂い、例えば、ハッカクの匂いで友人と行った台湾、葉巻タバコのような匂いで大学時代にひとりで行ったパリ、などを思い出すことがあります。視覚や触覚、聴覚に比べて、嗅覚は言葉にし難い場の空気感や集団で共有した記憶のようなものを思い出させてくれるような気がします。この展示室で記憶にない匂いを誰かと共有することで、新たな記憶が生み出されるのかもしれません。手に触れたり、どこかにしまっておくこともできない、脆いなにかを捉えようとするこの展覧会は、私たちが生きているということや、自分と他者とのつながりすらも実感させてくれる強い力がありそうな気がします。

2008年4月28日月曜日

自らの視点に批判を

 
 アマゾンから届いたDr. Richard Sandellの『Museums, Prejudice And The Reframing Of Difference』を少しずつ読んでいます。ちょっと反則かもしれませんが、一番最後の「(Re)framing conversation」という章から読み始めました。

 ここではケーススタディなどと絡めて、博物館がどのように社会の偏見や先入観に関与できるか、について包括的に論じています。もともとDr. Sandellは、来館者と博物館の間には、社会で起こる偏見、(例えば人種、宗教、移民問題、セクシュアリティなどに対して)積極的に知識を得て会話を生むという強い力があると考えてたそうです。しかしその予想に反し、来館者は自分が偏見を持っているかどうかより、自分と他者の違いに対して戸惑い、葛藤を見せていることが分かったそうです。一方博物館では、多くの学芸員がバイアスを感じさせる展示を避けたいと思っており、特定の視点に立った展示を作ろうとすると制作側からの横やりが入る、という事実もありました。ここで彼は、偏った視点に立って語るのは博物館として相応しくない、と言って平等主義を説く人たちこそ、まさにその視点に固執している、と指摘しています。例として、自然科学博物館は環境(保護?)主義を支持し、来館者も環境に対してそのような考えを持つように誘導している、ということをあげていました。(p.177)

 ここには、博物館側のジレンマが感じられます。彼はこう書いています。「博物館の現場では、自分たちが『正しい』と信じる結論に来館者を誘導することに居心地悪く感じており、また批判的でもある。しかし、そこを来館者に委ねすぎると、偏見や先入観と向き合って自分自身の価値観や行動と照らし合わせることができなくなる。」(p.178) さらに彼は、Constructivism(構成主義)の限界について言及しています。Constructivismは博物館学、特に博物館教育でよく出てくる概念です。一方的にひとつの視点から来館者に教え込むという従来の教育に対して、個人の解釈や複数の視点を重視した教育の考え方です。しかし、Dr. Sandellは、ケーススタディとして取り上げた聖マンゴ宗教美術館を例に挙げ、いろいろな宗教コミュニティの個々の声や宗教にまつわる事物を取り上げているが、博物館側は自分たちが主張する、異なる宗教に対する敬意や相互理解の重要性に対して、否定的だったり批判するような意見を避けようとしている、と書いています。

 私も大学院にいた時、Constructivismの理論をあちこちの文献で見ましたし、自分のエッセイにも引用していましたので、この事実はかなり衝撃でした。特に、Dr. Sandellがテーマにしている偏見や先入観を問う展示に関しては、Constructivism的な見方では、対話や気づきを生みにくくしているということを指摘しています。来館者が無意識に、無批判に持っていた視点に疑問を投げかけつつ、前向きな対話ができるような場を作ることの難しさについて考えさせられました。

 ところで印象的だったのは、この本では主語の"I"を多用していることです。大学院の授業では、アカデミックな文章では"I"とか”my”といった単語をあまり使わないと教わったので、とても意外で新鮮に感じました。しかし同時に、先生個人の強い思いや、問題意識にとても密接しているように感じられて、ぐっと文章に引き込まれました。


 この本は、博物館学の専門書ではありますが、社会学や教育学に興味がある人にも意義深い内容なのではないかと思います。さらに読み進めていくのが楽しみであり手強くもあります。

2008年4月18日金曜日

美術館を三次元的に見る


 
 最近フランスに行った方から、お土産にケ・ブランリ美術館(MUSÉE DU QUAI BRANLY)のブックレットを頂きました。ケ・ブランリは、2006年にパリに開館した美術館で、アフリカ、オセアニア、アジア、アメリカの民俗学、人類学的な美術資料を扱っています。「展示は、作品が作られた社会文化的文脈に基づいている」(ブックレットより)ということですが、イギリスの大学院時代の友人や先生からは「美術品として扱いたいのか、人類学的に扱いたいのか、展示の軸がぶれていてあまり良いとはいえない。」という話を聞いたことがあります。評価は私自身が実際に見に行った時にすることにして、今回はこのブックレットに関して書いてみたいと思います。

 ジャン・ヌーベルが美術館建築を手がけたことでも話題になりましたが、ブックレットでは美術館ができるまでの5年間のプロジェクトを紹介する形になっています。シラク大統領の指揮による計画、建築コンペ(レム・コールハースやレンゾ・ピアノも出展していたそうです。)、基礎を掘る段階で見つかった遺跡の発掘、内装、庭園そしてコレクションと展示について紹介されていますが、展示の内容については全体の三分の一程のページしか割かれていません。建物とその周りの環境がどのように作られたかを、写真もふんだんに解説するのがこのブックレットの狙いのようです。ひとつの美術館ができるまでがコンパクトにまとめられていて、以前観た映画『動物、動物たち』を思い出させるようでした。

 ミュージアムショップには、展示についてのパンフレットなどもあるようですが、私はこのブックレットの方向性がとても魅力的に感じました。建築、造園、行政、など、普段美術館に行った時に見る位置からちょっとずれた場所から美術館を見る、という視点を思い出させてくれます。多分に政府のプロパガンダ的な思惑はあるにしても、美術館に関する知識を、文字通り立体的に得ることができるところが、とても博物館学的だと思いました。

MUSÉE DU QUAI BRANLYウェブサイト
Looking at the art gallery three-dimensionally

My boss went to France and brought back a booklet of Musee Du Quai Branly for me. This museum was open in Paris in 2006. It is about anthropological art works from Africa, Oceania, Asia and America. Although booklet says that the exhibits are based on the socio-cultural context that they were made, I've heard that the tutor and my classmate at the uni criticized it as they really don't understand how they want them to display. They said that the display seemed to be confusing that they show some works as art, but some as anthropological objects. Well, I would like to talk about it when I actually see them so I here would like to talk about the booklet itself.

The museum became famous, as Jean Nouvel has designed it. The booklet shows the 5 years project from the plan of President Chirac’s manifesto, competition of architecture (Lem Koolhaas and Renzo Piano were also the competitors.), the ancient ruins which were found when they were digging the site for the base of the building, interior design, garden collection and the display. I found it interesting that about collection and display were described in one third of the booklet. The aim of this seems to be to show how the museum building and the surrounding environment were made with variety of pictures. It reminds me of the film I saw a few months ago, “Un animal, des animaux” by Nicolas Philibert, as it tells us the process of which one museum has being made.

In the museum shop, there must have been some more booklets about the collection and display, but, I found this one is much more interesting. Usually, when we go to a museum or an art gallery, we look at art works or objects, though; we also could focus on the architecture, the garden, or administration of a museum to understand it more deeply. The booklet must have had some intensions to state governmental propaganda, but still, it reminds me of a viewpoint to look at one museum from a different angle which we usually ignore. I would say it is looking at a museum "three-dimensionally". It should be important to have several viewpoints to understand what museum really is.

2008年3月10日月曜日

博物館の語り手

  インターネットで調べものをしていましたら、母校のレスター大学博物館学部の先生がお話しされているポッドキャストを発見しました。Dr. Richard Sandellの懐かしいお声!これは、彼が書いた『Museums, Prejudice And The Reframing Of Difference』という本をもとに、Demosというシンクタンクのインタビューに答えているものでした。Demosは、公共サービス、科学技術、都市と公共空間、アートと文化、アイデンティティそして世界的安全保障という6つのテーマで、政策立案や社会起業などに関わっている団体だそうです。

 インタビューは「博物館と偏見」というテーマでした。博物館が社会における偏見にどう立ち向かっているかを、彼が行ったグラスゴーの聖マンゴ宗教博物館 とアムステルダムのアンネ・フランクハウスでの調査をもとに話しています。この二つは博物館として、偏見に対する理解を促すというミッションを明確にしているそうです。彼は、博物館には様々な偏見、先入観に立ち向かう役割があり、異なる他者に対して敬意を持つことを示唆するとともに、来館者に議論を促す力があると言っています。博物館自体も、こういった問題に取り組んでいるところが増えているそうです。

 来館者もまた、博物館は色々な見方を分からせてくれる、理解を深める機会を提供してくれる社会的財産であると好意的に認める一方、こういった内容に不快感を表す人もいるそうです。アンネ・フランクハウスを例にしていたのですが、来館者の中には、展示されている内容について、現代に生きる自分たちがそれをどう理解するのかという見方ではなく、歴史の中で妥当と思われる視点に固執している人もいる、と彼は言っていました。この辺のニュアンスが少し分かりにくかったのですが、過去に起こった戦争や差別といった出来事を、今生きている社会でどう位置づけて生かしていくか、ではなく、「過去はこうだったんだから仕方ない」というような見方から脱せない人もいる、ということなのかな、と私は理解しました。こういった問題に関しては、博物館側も明確に語ることに居心地の悪さを感じているところも見られる、と彼は言っていました。

 実は、最近お会いした方々とお話しする中で、日本の博物館の戦争展示には、誰の視点で語っているか明確にしていない(あるいは諸々の理由でできない)ことで、見ている方が混乱するものがある、という話題が出てきたので、彼の話はとてもタイムリーなトピックでした。宗教、戦争、差別といった社会的・政治的な内容を博物館で扱う時、どの角度から見ても公平な視点を設定するのは難しいと思います。私が大学院にいた時、マンチェスターの帝国戦争博物館に学校のカリキュラムで行く機会があったのですが、全編に流れる「我々は戦争によって、人々を解放し世界に平和をもたらした!」という語り方が、日本人の私にはとても奇異なものに見えました。クラスに帰ってからのディスカッションでも、イギリス人やアメリカ人、オーストラリア人は何の違和感もない様子だったのに、日本人やギリシャ人の学生は「そもそもあの論調がありえない」といった感想を言う人が多く、何だか議論がかみ合わないなーと感じたことがあります。でも、すべての人が納得できる視点は不可能、という大前提を理解し、そこから何を語れるかを考えていくという挑戦が必要だと思います。

 取りあえず『Museums, Prejudice And The Reframing Of Difference』をアマゾンで注文しました。アマゾンUKの紹介によると、この本はジェンダー、社会階級、民族、セクシュアリティといった問題にも言及しているそうです。手元に届くのが楽しみです。武者震いして待っているところです。

Demos Demos Podcastウェブサイト
著:Richard Sandell
出版社:Routledge


2008年3月2日日曜日

大人たち、集合!

 今見てみたい舞台のひとつに、”Weimar New York”があります。ニューヨークで定期的に行われている舞台で、1920年代ベルリンの音楽や美学を現代に蘇らせた「演劇的キャバレー」と呼ばれているものです。映画『ショートバス』でクラブのグラマラスな女主人(男性ですが)を演じた、ジャスティン・ボンドを始めとするパフォーマーたちが出演しています。随分とダークでアンダーグラウンドで大人向けの香りがする舞台なのですが、先月行われたショウの舞台はサンフランシスコ現代美術館でした。

 公共性の高い美術館で行うには少しばかり刺激的すぎるような印象がありましたが、どのような経緯で実現したのでしょうか。美術館ウェブサイトを見るとこのイベントは、展覧会、コレクション、教育プログラムに並ぶ公共プログラムのひとつとして位置づけられていました。日本でも最近、国立の博物館、美術館の独立行政法人化によって施設を商業的な目的で貸し出すケースも見られますが、”Weimar New York”は美術館活動の一環として行われたようです。SFGateというサンフランシスコの新聞サイトによると、このアイデアは美術館公共プログラムの新しいコーディネーターによるもので、学芸員の一人がプロデューサーをつとめたそうです。バレンタインデーには学芸員とパフォーマーによる無料のトークショウも行われたとのこと。

 大人が楽しめるこういったイベントが、美術館を舞台として行われたというのがとても素敵だと思いました。日本でも海外でも、様々な美術館や博物館が来館者の興味や学習意欲を高めるため、教育・公共プログラム作りに試行錯誤しています。子供向け、親子向けのプログラムはよく目にするのですが、大人にアピールするプログラムがもっと増えればと良いのに、と常々思っていました。学びとか、知的好奇心を高める先に、もしかしてもしかして素敵な異性との出会いもちらりと期待できるかもしれないですし。そうなったら博物館や美術館は、もっと大人が行きたくなる場所になるはず。(少なくとも私はそう!)

”Weimar New York”の映像をご覧になりたい方はこちら

SF GATE DATA LINES ウェブサイト

2008年2月29日金曜日

猥褻物?アート?

 ある美術展のポスターを巡る話題を、イギリスの新聞The Guardianのウェブサイトで見つけました。まずは2月13日付けの"Venus banned from London's underworld(ヴィーナス、ロンドンの地下から拒否)"。ロンドンの美術館、ロイヤルアカデミーで3月から開催されるクラナハの展覧会ポスターが、ロンドンの地下鉄で掲示を拒否されたというニュースです。

 問題のポスターは、ドイツの画家クラナハが1532年に描いた「ヴィーナス」という作品が使われる予定でした。この作品は、ネックレスと薄いガーゼしか身に付けていないヴィーナスが、艶かしいポーズで描かれています。ロンドンの地下鉄広告には「性的に描かれた男性、女性、子供、あるいは明らかに性的な文脈で描かれたヌード、セミヌード」を禁止するというガイドラインが設けられており、クラナハの作品もこれに抵触したようです。ロンドンの地下鉄のスポークスマン曰く、「ロンドンの地下鉄は毎日何百万人も利用するものであり、必ず目に入ってしまう広告については、不快に思う人を極力考慮する。」ということだそうです。

 しかし3日後の2月16日に掲載された"Venus allowed to descend into the underground(地下へ行くことが許されたヴィーナス)"という記事によると、ロンドンの地下鉄は「ヴィーナス」のポスター掲示を認めたと言うことです。再びスポークスマン、「この作品の文脈を鑑み、地下鉄でのポスター掲示を行うことにしました。」とのこと。

 このような場面で、何をもって性的な表現とし、人の気分を害すると判断するかは微妙な問題です。芸術表現の知識や、美術館での鑑賞経験の多い少ない、特定のイメージから喚起される意味をどう理解するか、などは文化的、社会的、教育的背景よって変わるものだからです。だからこそ、誰もが満足する着地点をガイドラインとして設定するのは難しいと私は感じます。こういった問題は、ひとつひとつのケースに応じて結論を出すしかないのでしょう。

 記事で面白かったのは、「宗教改革を行ったルターの親しい友人でありながら、官能的なヌードを描いたことで有名なクラナハ・・・」という表現をしていたことです。宗教家と交際がありながら扇情的な作風、と両極な印象を暗示しているところに、ある種の納得いかなさがにじみ出ているようで、苦笑してしました。公共の場における美術表現の許容範囲を考えることは、色々な立場からのこのような「納得いかない感じ」と折り合いを付けていくことなのかもしれません。


Guardian Unlimited "Venus banned from London's underworld” 2008/02/13
から抜粋しました。

2008年2月23日土曜日

嫌悪感と好奇心

 『Museum Revolutions: How museums change and are changed(博物館革命 いかに博物館は変化し、また変化を余儀なくされてきたか)』という本を読んでいます。2006年にイギリスのレスター大学博物館学部で行われたカンファレンスをまとめたものです。私もこのカンファレンスを聞きに、イギリスまで行ってきました。

 発表の中でも特に面白かった、サウザンプトン大学のMary M. BrooksとClare Rumseyの論文から読み始めました。タイトルは'Who knows the fate of his bone?' (彼の骨の運命は?)、博物館や美術館で展示物として扱われる、人体資料についての研究です。これら「本物の人体」にはミイラや人骨、標本など、様々な形がありますが、ここでは特に人体資料の展示に対する来館者の嫌悪感と好奇心のせめぎ合いに注目しています。そして博物館のプロフェッショナルは、文化的、科学的、芸術的視点からこの問題にどう取り組んでいくべきか、問いを投げかけています。

 ここではとても興味深い調査が紹介されています。私たちは資料としての人体にどのように嫌悪感を持ち、また興味をもつのか、を探ったものです。調査は、豚の心臓、足、皮膚を模したもの(人間の皮膚に似ている)、人の毛髪を編んだもの、ガラスの箱に入った親知らず、そして偽物の歯を前に、学生たちのグループに感想を話してもらうというものでした。多くの学生たちは、豚の一部を模したものに嫌悪感を表し、歯の模型に関してはすべての学生が触りたがらなかったそうです。また、髪の毛に関しては、母親の髪の毛をブラシしたこと、祖母の巻き毛、といった個人的な思い出を呼び起こすものであったものの、手に取るのは躊躇する学生もいました。カンファレンスで発表したBrooks氏は「ちなみに髪の毛は、私が提供したものなんですけどね。」と言って会場の笑いをさらっていました。

 このように生きた肉体から引き離された人体の一部は、触れることを拒みたくなる強い力を放っている一方、ミイラやプラスティネーションの企画展は多くの入場者を引きつけ、結果的に収益を上げるヒット展覧会になるという現実があります。私たちは、人体資料に対してどこか恐いもの見たさのような魅力を感じつつ、感情的、倫理的な禁忌も同時に感じるという非常に興味深い反応を示すことが分かります。この論文によると、先史の人骨は受け入れられるけれど、現代人の人骨は駄目、同じように大人の人骨や乾燥している人体資料なら大丈夫だけど、子供の骨や生っぽい、しっとりした質感の資料に対しては拒否感、という反応も見られるようです。博物館や美術館という文脈の中において、来館者の心理の触れ幅がこんなにも大きくなるというのは驚きでした。

 ところで私は、数年前に抜いた親知らずを取ってあります。手に取って眺めているうちに、これはアクセサリーにしたらいいかも?と思い始めました。周りの人に話したところ、面白かったのは反応がまっぷたつに分かれたことです。「悪趣味だから止めなさい。」とか「気持ち悪い!」と直感的に反対する人と、「ナイスアイデア!」とか「指輪にした人を知ってる。ピアスにしたら良いんじゃない?」と全面的に賛成してくれる人。そのあまりのまっぷたつぶりに驚かされました。今のところ、私の親知らずの運命も未定です。

編集:Simon J. Knell, Suzanne MacLeod, Sheila Watson

出版社:Routledge

2008年2月17日日曜日

『わたしいまめまいしたわ』


 金曜の夜、夜間開館をしている東京国立近代美術館へ行きました。『わたしいまめまいしたわ現代美術にみる自己と他者』という企画展を見ました。

 この展覧会では、5人の学芸員が8つに分かれたコーナーを担当しており、各コーナーの始めには、担当した学芸員の解説がついています。私は始め、この構成がよく分かっておらず半分過ぎまで来てしまいました。ところが途中からこの構成を知って、俄然面白さがアップしました。国内外の時代もさまざまな作家の作品を、個々のキュレーターの視点を通してみることで、自画像、身体、死などのテーマがぐっと近くに感じられました。それに、今まで知っていた作家や、好き嫌いで判断すると嫌いだった作家の作品も、「こう見ると、こういう意味をひきだせるのね。」とか「このキュレーターはこう言ってるけど、私はこう思う。」というように、自分を縛っていた見方から解放されるような気持ちにもなりました。

 このプロセスは、美術作品、とくに現代美術作品に対して私の中でもやもやしていたものへの、ひとつの回答のようにも感じました。これまでいろいろな場面で耳にしてきた「現代美術は分からない」という(やや苛ついた)反応に対して、しっくりくる答えができないものかとよく考えていました。古文書とか仏像を前にして「こういうのは分からない」というあからさまな拒否反応はあまり聞かないのに、こと現代美術に関してはなぜか「分からない」ことが人々のネガティブな気持ちを呼び起こしているようにも感じました。などと言っている私も、展覧会を見ながら、ここで何か言葉にしないとダメだ!という脅迫的な思いになることが時々あります。

 現代美術と自分とのこういった距離感は、もしかすると「よりどころ不足」のようなものからきているのかもしれません。分野は全く違いますが、スーパーで時々見かける、作った人の名前が明記された野菜のように、展覧会の作品も「私がこんなふうに選びました」というのがもっと明らかになっていると、見る方は一歩前に進む指針を得られるのかもしれません。そして見る方はそれに対してふむ、と納得するもよし、いや違う、と反論するもよし、なのだと思います。

東京国立近代美術館

 

2008年2月9日土曜日

『動物、動物たち』


 『動物、動物たち』という映画を見に行きました。フランス国立自然史博物館の大改修を追った、ニコラ・フィリベールという監督のドキュメンタリー作品です。過去2世紀に渡って集められてきた博物館の剥製コレクションを修復し、現代の研究をもとに新しい展示室を完成させるまでを描いています。改修は91年から93年まで行われました。新しい展示室では、動物たちが大行進をしているような構成になっており、進化の歴史がダイナミックな力強さで表されています。

 博物館学的な価値や博物館の裏舞台が見られるのを期待して行ったのですが、見終わって感じたのはもっと広く、一つの大きなプロジェクトが完成するまでのひとつひとつの仕事の尊さでした。カメラは、古い展示室を解体する作業員から、動物学の研究者、剥製師など、この大改修に携わるあらゆる人々の仕事を捉えます。展示室を解体するブルドーザーを動かしている人、資料の蝶を展翅している人、クレーンで剥製を降ろしている人、シマウマの剥製に彩色している人、展示室の照明を調節している人。みな共通して、目の前の自分の仕事に集中している真摯なまなざしが印象的でした。時には自分の領分を守るため、一歩も譲らない議論が起こったりもします。もしかしたら、自分が関わっている任務が、最終的にどんな形になったかを見ることがない人もいたかもしれません。しかし、これらここに集結したあらゆる仕事が積み上げられなければ、プロジェクトは完成しなかったのです。モザイク画のように、遠目から見れば一つの絵として認識されるけど、近づくと小さな破片でできていたことがわかる、というのと同じだと感じました。博物館についての映画を見たというより、仕事をするってこういうことなんだな、と自分の毎日を改めて振り返るような気持ちになりました。

 ちなみに私はフィリベール監督の作品を、他にも二つ見に行ったことがあります。精神科診療所を描いた『すべての些細な事柄』と、ルーブル美術館を描いた『パリ・ルーブル美術館の秘密』です。どの作品も、声高でも押し付けがましくもなく、遠くの方から愛情とユーモアの気持ちを持って見つめているような雰囲気があります。信頼できる視線を持つ映画監督だと、彼の作品を見るたびに思います。